「山の手」とは? 「下町」とは?
東京を語る上で欠かせない「山の手」と「下町」の呼称ですが、このふたつのエリアは具体的にどこを指しているのでしょうか。
どこからが山の手で、どこからが下町なのかを東京に住む人たちに聞いてみると、答えはバラバラです。
ある人は世田谷区や杉並区を山の手といい、ある人は江東区の深川あたりや葛飾区あたりを下町といいます。とりわけ自ら下町を自称している地域もあるわけですが、ほんとにそうなのかイマイチよくわかりません。
なんとなくお金持ちが多そうな地域を山の手、庶民が住んでいそうな地域を下町と呼んでいる具合です。
地元紙のエリア分けによると……
東京の地元紙『東京新聞』は、地域面を「都心版」「山手版」「したまち版」に分けて発行しています。ここでのエリア分けは、次のとおりです。
・都心版:千代田区、中央区、港区、新宿区、品川区、大田区
・山手版:目黒区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、板橋区、練馬区、北区
・したまち版:台東区、墨田区、江東区、荒川区、文京区、足立区、葛飾区、江戸川区
庶民が住んでいそうな板橋区や北区が山手版になっているところを見ると、山の手と下町切り分けには明確な定義がないのでしょうか。
江戸時代前期に定着した意識
もともと山の手と下町という言葉は、江戸時代の17世紀後半から見られるように言葉です。江戸時代前期、山の手は早くも武家屋敷の町、下町は町人の町という意識が定着していました。
この頃の山の手とは、江戸の高台にあたる麹町・四谷・牛込・小石川・本郷などの地域です。対して下町は、御城下の町という意味で、京橋・日本橋・神田を指していたようです。
高台になっている部分に武家屋敷や寺社が広がり、山の手となっていたことから、今でも田端から上野まで続くJRの線路沿いの崖が続くあたりや、湯島天神(文京区湯島)あたりの標高差がはっきりしているあたりを、境界とする説があります。
どちらにせよ、江戸の町は現在の東京よりも小さく、山の手と下町のどちらも範囲が狭かったのです。
浅草は「真の下町」にあらず?
次第に市街地が拡大すると、この範囲が広がっていきます。
江戸時代の後期には、下谷や浅草も下町ということに。今では下町の「本場」のようになっている浅草ですが、神田や京橋の住人にしてみれば、真の下町ではないというわけです。
これは漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でも何度も使われているネタなので、知っている人も多いことでしょう。
山の手と下町の範囲が本格的に広がるのは、大正時代以降です。
まず、下町から見て隅田川の向こう岸だった本所や深川も下町と呼ばれるようになります。昭和初期には、現在の墨田区・江東区も下町の一部として認識されるようになったわけです。
対して山手線の内側が西側の端だった山の手は、1923(大正12)年の関東大震災を契機にさらに西へと進みます。もとは郊外の農村地帯だったところが住宅地として開発され、新たな山の手となっていったわけです。
柴又も「新しい下町」だった
対して、下町もどんどん東へと拡大していきます。戦後になると、江戸時代は農村地帯だった葛飾区や江戸川区が下町と呼ばれるようになりました。
しかし、これらはあくまで「そう考えている人が多い」程度のものに違いません。自称・他称さまざまですが、認識は全員違うと言えるでしょう。
前述の通り、多くの人が下町の認識だと思っている浅草は、神田の人からすると「後から下町になった地域」です。柴又は今でも下町情緒の残る楽しい町ですが、下町としてはとても新しい町です。
自称「山の手・下町」の謎
深川も同様です。今では清澄白河駅近くの商店街が下町を売りにしていますし、深川江戸資料館(江東区白河)という庶民の生活を展示した施設もあり、浅草と並ぶ「本場」のノリです。
しかし大正時代頃の深川は、東京湾に面した物流拠点として栄えており、下町とは違う先進地帯としての意識が強かったようです。
これは山の手も同様で、「山の手 = お金持ちが住んでいる」はわずかなもので、たいていのところは庶民の街が広がっています。
こういった状況下でむしろ興味深いのは、山の手・下町と呼ばれる地域の人々がなぜ山の手・下町を自称しているのかという歴史的背景を考察することのように思われます。