広島県呉市に期間限定で開設されている「大和ミュージアムサテライト」に零式観測機の模型が展示されています。戸髙館長いわく、戦艦「大和」は当初、別の機体を搭載する予定だったとか。エレベーターの謎についても説明してくれました。
戦艦「大和」の図面に描き込まれた“エレベーター”の謎
呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」(広島県呉市)のリニューアルに伴う休館対策として設けられた仮展示室「大和ミュージアムサテライト」に、旧日本海軍が運用した「零式観測機(零観)」の実物大模型が展示されています。
「大和ミュージアム」が保有する10分の1スケールの戦艦「大和」(深水千翔撮影)。
今回、取材するにあたり、戸髙一成館長が直々に対応してくれたのですが、そこで「『大和』は当初、十二試の二座水上偵察機を搭載することを前提にしていた」と語ってくれました。戦艦「大和」の設計に影響を与えた搭載機問題とはどのようなものだったのでしょうか。
そもそも、戦艦「大和」とその姉妹艦である「武蔵」は、史上最大となる46cm砲を搭載した世界最大の戦艦として知られます。とうぜん、大和型には当時の日本が持っていた技術の粋が凝縮されており、さまざまな新機軸が取り入れられています。
そうした画期的な点のひとつに挙げられるのが、新造時から複数の航空機運用を想定し、十分な広さを持つ飛行機作業甲板と専用の格納庫を艦尾側に設けたことです。
しかし、「大和」型の航空艤装については、長いあいだ不明な点も多かったのも事実です。その中には、今では否定されているものの、艦尾クレーンの手前にあるレセスに、搭載機を運ぶためのエレベーターが設置されていたというハナシがありました。
「終戦直後に公表された松本喜太郎氏や福井静夫氏の本に掲載されている大和の図面を見ると、あそこに『エレベーター』と書いてある」と戸髙館長は話します。
「実際には取り付けられなかったから、みんなこれは間違いだと思っている。私は呉海軍工廠造船部の設計主任だった牧野 茂氏に『大和の図面にエレベーターって書いてあるが、実際にはついていない。なぜこういうことが書いてあるのでしょうか?』と聞いたら『俺が取り付けるつもりでつけろと言ったからだ』って答えた」
図面に残されたエレベーターの文字。それは戦艦「大和」が「零式観測機」ではなく別の機体を載せようとしていた名残りです。
ナゾの機体「十二試二座偵察機」とは?
そもそも、零式観測機は1935(昭和10)年に試作指示が出された「十試観測機」を制式化した機体です。大和型戦艦は1937(昭和12)年以降の「第三次海軍軍備補充計画」、通称「マル3計画」で整備が決まった艦艇で、同時期には十二試艦上戦闘機(のちの零式艦上戦闘機)や十二試陸上攻撃機(のちの一式陸上攻撃機)といった、その後に海軍航空部隊を支える機体の開発も始まっています。
「大和ミュージアムサテライト」の戸髙一成館長と零式観測機の実物大模型(深水千翔撮影)。
「大和はマル 3 計画の船なので昭和 12 年以降の予算執行対象。これはつまり十二試が大和と同時代のものということになる。そうすると最初から十二試複座偵察機は大和用にすることを計画していた」(戸髙館長)
旧日本海軍は1937年3月に十二試三座水偵の試作を愛知時計電機と川西航空機へそれぞれ命じた後、その3か月後の6月に今度は九五式水偵の後継として十二試二座水偵の試作を愛知と川西、そして中島飛行機の3社に命じています。
このうち十二試三座水偵は紆余曲折があったものの、最終的に愛知の機体が採用され、1940年12月に「零式水上偵察機」、通称「零式三座水偵」として制式化。しかし十二試二座水偵の方は実用化されませんでした。
戸髙館長は「十二試二座水偵は零式三座水偵を2人乗りにしただけで、ほとんど変わらない機体だった。ただ、若干安定がどうかなっていう程度のことで開発が止まることになる」と理由を説明します。
実際、十二試二座水偵の開発を巡っては初期段階で川西が脱落。愛知と中島は試作機を完成させたものの不採用となっています。さらに零式三座水偵は巡洋艦に搭載して使用することになり、戦艦は観測機のみを搭載することになりますが、肝心の十二試二座水偵の開発がつまずいたことで問題が発生します。
「そうすると大和用の観測機がないということになる。では、どうするかというと、2年古い開発スタイル、つまり大和用でない時代のものを零式として採用して乗せることになった」
十試観測機は川西が競争試作を辞退し、愛知も海軍の求める仕様から外れ失格。残った三菱重工業はさまざまなトラブルに手を焼き、開発が長期化していました。最終的に、新型エンジン「瑞星」を搭載し、多くの改良を施したことで申し分ない性能を発揮できるようになったため、「大和」に搭載する「零式観測機」となったわけです。
エレベーターが必要なくなったワケ
十二試二座水偵の全幅は13mで、格納時の全幅は7.5mとなる予定でした。一方で零式観測機は全幅11mで、格納時の全幅は5.3mです。搭載機が零式観測機へ変更されたことは、「大和」本体の設計にも影響が出ることになります。
「大和ミュージアム」で展示されている10分の1スケールの戦艦「大和」。同艦は、日本戦艦として初めて計画当初から航空機の搭載を考慮して設計された艦だった(深水千翔撮影)。
「十二試二座水偵を格納庫に通じるレセスに入れようとすると左右に 50cmから 60cmのクリアランスしかない。その場合、クレーンで吊るとちょっと揺れても翼がぶつかる。これではとてもダメだということで、床にエレベーターを付けてまっすぐ降ろせば左右にぶれないという設計で進んでいた。ところが零観になったら肩から後ろにトンボのように翼をたたむため、全幅がプロペラの幅ぐらいまで小さくなる。そうなると左右には数mのスペースができ、結構揺れても全然平気。だからエレベーターの必要がないと判断され、付けなくなった」
実際に竣工した「大和」では、クレーンを用いて零式観測機を格納庫と飛行機作業甲板の間を移動させていました。
戸髙館長は「大和の後部には本当に搭載機用のエレベーターを付ける予定で、準備もされていた。それが零観になったためにいらなくなった。しかも初期に公表された大和の図面にはちゃんとエレベーターと書いてある。それは間違えて書いたのではなくて、ちゃんとエレベーターが付くはずだった。そういう話がある。大和と零式観測機のいきさつは非常に面白いものがある」と話します。
着弾観測を目的に開発された機体ということで地味な印象がある「零式観測機」ですが、このように「大和」の建造と深く結びついた存在であることがあります。ぜひ「大和ミュージアムサテライト」に展示された実物大の「零式観測機」を見て、試行錯誤の連続だった水上機開発と「大和」の設計に思いをはせてみてはいかがでしょうか。