「日本航空」がANAの源流に?
日本で最初の民間航空輸送は、1922(大正11)年に始まりました。驚くべきことに、その草創期に使われていたのは軍用機を改造した機体でした。そして、当時の「日本航空」という会社の社長が、戦後には現在の「全日本空輸(ANA)」の基礎を築いたという、現代から見ると少し不思議な歴史もあります。国産旅客機が空を飛んでいた、そんな時代を振り返ります。
佐賀空港に保存されているYS-11旅客機(乗りものニュース編集部撮影)
世界初の航空機による商用民間輸送は、1914(大正3)年にアメリカのフロリダ州で始まったとされています。ライト兄弟の初飛行から10年あまりで、航空機は急速に発展していました。
日本ではその8年後、1922(大正11)年11月15日に日本航空輸送研究所が堺~高松間で民間定期航空路を開設したのが始まりです。週に3往復程度の運航で、旅客と貨物を扱いました。片道運賃は40円。現在だと数十万円から100万円程度にもなる高額なものでした。
この会社の名前には「日本航空」とありますが、現在の日本航空(JAL)とは全く関係ありません。しかし興味深いことに、同社の井上長一社長は、戦後に極東航空を立ち上げ、これが現在の全日本空輸(ANA)の基礎を築くことになります。「日本航空」の社長が「全日本空輸」を作った、というのは面白い話です。
当時の民間航空で使われた機材は、海軍で使われていた「横廠式ロ号甲型水上偵察機」でした。戦艦「三笠」にも搭載されたことがある軍用機です。このほか、一四式水上偵察機や六試小型夜間偵察飛行艇など、いずれも海軍機の払い下げを受け、客席を追加するなどの改造を施して使用していました。
水上機ではない初の定期商用運航は、1923(大正12)年に朝日新聞社が設立した「東西定期航空会」によるものです。陸軍の「中島式五型練習機」を導入し、東京~大阪間で郵便輸送を行いました。しかし事故率も高く、5機が失われたと記録されています。
1928(昭和3)年には、ドイツの旅客機「ドルニエ コメット」が導入され、東京の立川飛行場と大阪を3時間で結びました。運賃は35円。当時の東京~大阪間の特急一等車が21円、小学校教員の初任給が月給50円だった時代ですから、これも非常に高価なものでした。
国策で一本化、そして豪華飛行艇の夢
黎明期の民間航空には、ほかにも戦闘機「紫電改」で有名な川西航空機の設立者・川西清兵衛が設立した日本航空(これも現在のJALとは無関係)など、複数の会社が存在しました。
こうした状況を受け、政府は1928(昭和3)年に民間航空輸送事業の発展を目指し、東西定期航空会と日本航空を合併させて日本航空輸送を設立。さらに1938(昭和13)年には、日本の民間航空会社すべてを合併させ、国策会社「大日本航空」が誕生しました。当初は補助金頼りの経営でしたが、1931(昭和6)年の満州事変以降、軍関係者の利用が急増し、経営は一変します。
大日本航空では、中島飛行機が開発した国産初の本格的な旅客機「中島AT-2」や、三菱重工業が九七式重爆撃機をベースに開発した「MC-20」などを使用。これらは陸海軍でも輸送機として採用されました。
また、1940(昭和15)年には、海軍主導で南洋諸島までの空路が開設されます。ここには、当時最新鋭の九七式飛行艇を民間型にした「川西式四発飛行艇」が投入されました。リクライニングシートやソファ、調理室まで備えた豪華な仕様で、横浜からサイパン経由でパラオまでを結びました。もし戦争がなければ、より高性能な二式大型飛行艇が長距離路線に投入されていたかもしれません。
太平洋戦争の敗戦により、日本の民間航空は占領軍によって一旦禁止されます。再開は1951(昭和26)年のことで、民間の日本航空が設立されましたが、機材はすべて外国製でした。
国産旅客機の復活は、1962(昭和37)年の「YS-11」を待たなければなりません。この機体は、零戦や隼などを設計した技術者たちが集結し、「5人のサムライ」と呼ばれた彼らによって開発されました。YS-11は優れた性能を持つ優秀な機体でしたが、販売不振や高コスト体質などが響き、後継機の開発には至りませんでした。
その後、航空機の開発コストは飛躍的に上昇。日本は単独での開発を断念し、ボーイング767の開発に参加するなど、海外メーカーとの共同開発に活路を見出します。当初は実質的な「下請け」でしたが、実績を重ねることで信頼を得て、ボーイング787では主翼など最重要部分の35%を開発するに至っています。
近年では、三菱の「MRJ」が2023年に事業化を断念するという苦しい出来事もありましたが、一方で小型機「ホンダジェット」の成功もあります。日本の民間航空はその始まりから国産機と共にありました。完全な国産旅客機が再び日本の空を飛ぶ日に、期待したいものです。
