70%以上が爆撃された旧神田区
観光客や買い物客でにぎわう秋葉原駅から400メートルほど南東に位置する神田須田町(千代田区)。このエリアに足を踏み入れると、まるで昭和時代にタイムスリップしたような光景が広がっています。都会の激しい新陳代謝からぽつりと取り残された木造建築の街並みは、なぜ変わることなくその姿を残していているのでしょうか。
その理由について、千代田区内にある文化財の調査研究を行う日比谷図書文化館文化財事務室は、「神田須田町が太平洋戦争の空襲をまぬがれたため」といいます。同区が2016年に発行した戦争体験記録集「未来へつなぐバトン」には、空襲の被害について、以下の記載があります。
「千代田区内の空襲は昭和19(1944)年11月29日夜半からB29が27機来襲、神田など城東地域が被害に遭いました。昭和20(1945)年2月25日の空襲被害は甚大で、早朝からの積雪で消火活動は困難を極めたといいます。特に神田区(編集部注:現在の千代田区北部の地区。神田須田町は当時、神田区須田町といった)の被害は大きく、家屋約1万戸が被災しました」
神田須田町のあった神田区はその後も空襲を受け続け、終戦直前の1945(昭和20)年6月時点で、実に70%以上が爆撃にあったといいます。
「須田町には当時、東京地下鉄道(東京メトロのルーツとなる会社)が直営するチェーンストア『神田須田町地下鉄ストア』がありました。ある戦災史には、その建物の上層階から見た当時の様子として、『上空からの機銃掃射に警防団(編集部注:第二次大戦中、地域の消防や防空などのために組織された団体)や兵隊が、なすすべもなくうろうろしていた』と書かれています」(同室)
しかし、同町の一部のエリア、現在の神田須田町1丁目周辺は奇跡的に被害をまぬがれることができたのです。戦災焼失区域を示した「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」(1946年発行)を見るとそれを確認することができます。
国登録有形文化財や都選定歴史的建造物が並ぶ
そもそも、神田須田町1丁目はなぜ被害をまぬがれたのでしょうか。
「理由はいくつか考えられます。ひとつめは、焼夷弾の『直撃』を受けなかったこと。ふたつめは、エリアの北側の神田川とレンガ造りの高架線路、東側の国鉄中央本線の路線や旧万世橋駅、南側の靖国通りが防火帯になったと考えられることです。加えて、当時の風向きも関係していると思います。
しかし、似た条件の(神田須田町の東にある)岩本町周辺は被害を受けていることもあり、神田須田町が被害をまぬがれたのは、『偶然』の要素も強かったといえるでしょう」(同室)
千代田区では戦災の被害をまぬがれた建物のなかで、街の景観に寄与しているものを「千代田区景観まちづくり重要物件」に認定しています。
「古い建物を中心に、景観が良いものを指定対象としています。景観形成に寄与すると認められた場合には、物件の保存などに必要な工事を行う際には、専門家を派遣したり、工事費の一部を助成したりしています」(同区環境まちづくり部景観・都市計画課景観指導係)
現在の指定物件は、鷹岡(繊維品卸売、1935〈昭和10〉年竣工)、あんこう鍋いせ源本館(あんこう料理専門店、1932〈昭和7〉年竣工)、神田まつや(そば店、1925〈大正14〉年~1926〈昭和元〉年)、ぼたん(鳥すき焼き店、1930〈昭和初期〉)、竹むら(甘味店、1930〈昭和5〉年)、海老原商店(1928〈昭和3〉年)、柳森神社(1930〈昭和5〉年)、万世橋(1930〈昭和5〉年)の計8つです。
なお、あんこう鍋いせ源本館や神田まつや、ぼたん、竹むらは、東京都による「都選定歴史的建造物」にも認定されています。
そのほかにも、国登録有形文化財の山本歯科医院(1928〈昭和3〉年竣工)、2013年の焼失を乗り越えて再建されたかんだやぶそば(1923〈大正12〉年竣工)、インドの自然素材服を販売するアナンダ工房のアールヌーボー風の看板建築などが見どころとして挙げられます。
日比谷図書文化館文化財事務室では、「各店の看板や吊り灯籠、変体仮名(編集部注:現在使われているひらがなとは異なる字体の仮名。ぼたんの「た」の字、やぶそばの「ぶ」など)にもぜひ注目して欲しい」と話しています。
●神田須田町
・住所:神田須田町1
・交通アクセス:JR/銀座線「神田」より徒歩5分、丸ノ内線「淡路町」より徒歩2分