新海誠監督作品の舞台に
新宿御苑(ぎょえん。新宿区内藤町)は四季折々の美しい自然と庭園風景を楽しめ、「都会のオアシス」として親しまれています。また、新海誠監督のアニメーション映画「言の葉の庭」の主な舞台としても登場。同作は靴職人を夢見る高校生・タカオと謎めいた女性・ユキノが雨の日の庭園で出会い、ふたりの交流が始まるという物語です。
作品では繊細な光の描写で、新緑の緑のみずみずしさや雨の情景の美しさが描かれました。実際、新宿御苑は都心とは思えない緑の美しさと豊かさでたくさんの人を集めています。
そんな新宿御苑ですが、かつてはまったく別の用途で使われていた時期があります。なんと、米や野菜、果樹などさまざまな農産物の栽培・研究を行う施設として利用されていたのです。
現在の整えられた美しい庭園からは想像がつきませんが、新宿御苑の地は近代農業技術のさきがけとして重要な場所でした。今の趣深い庭園へと変化を遂げるには、主に三つの理由があったと考えられます。
西洋風から和風まである複合的な庭園
新宿御苑の一般公開は1949(昭和24)年で、皇居外苑(がいえん)や京都御苑とならぶ国民公園のひとつです。戦前は皇室の庭園でしたが、戦後は国の直接管理のもとで国民一般に開放、利用されるようになりました。
いまや新宿区の観光スポットのひとつとなり、2017度の入園者数は過去最高の250万人にのぼりました。内閣総理大臣が主催する「桜を見る会」の会場や、毎年11月に開催されている「菊花壇展」も有名です。
新宿御苑はプラタナス並木やバラの花壇、広い芝生など西洋風の広い庭園だけでなく、池のほとりには太鼓橋がかかる日本庭園があります。「言の葉の庭」では、とりわけ日本庭園にある東屋(あずまや)や藤棚、旧御涼亭(ごりょうてい)などが登場し、登場人物の交流のシーンが描かれました。
さまざまな趣の美しい庭園がある新宿御苑ですが、その姿に至るひとつめの理由は、江戸から明治にかけての土地の管理にあります。
江戸初期からの大名屋敷を明治以降に国が確保
新宿御苑の歴史は、江戸初期に徳川家康の家臣・内藤清成が家康から屋敷地を与えられたことから始まりました。その敷地は現在の新宿御苑の面積よりも広く、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保にまでおよぶ広大な敷地だったそうです。
江戸時代中期に入ると、内藤家の領地で江戸東京野菜のうち「内藤とうがらし」や「内藤かぼちゃ」が作られるようになりました。すでに江戸時代において、のちに述べる農業や園芸の拠点となる兆しがあったといえます。
その土地は明治に入り、大蔵省(現・財務省)によって周辺の土地とともに確保され、「内藤新宿試験場」となります。内藤新宿試験場は、近代農業振興を目的にした国内外の植物種子や苗の採取・研究・栽培を行う施設でした。
江戸時代から続く大名の敷地を国が確保したことで、現在の新宿御苑の基盤ができあがったのです。
農業試験場を経て皇室の御料地・農園へ
ふたつめの理由として、農業試験場から皇室で用いる農産物を作る御料地となったことが挙げられます。
内藤新宿試験場は、1879(明治12)年に宮内省へ所管が移り、皇室で用いる農作物を栽培する御料地「新宿植物御苑」とへと変わります。目的は変わったものの園芸の栽培・研究は引き継がれました。
現在の庭園内にはプラタナスやヒマラヤシーダー、ユリノキなどシンボル的な大きな樹木がいくつか見られますが、それは当時植えられたもののようです。
また、敷地内には同時期に鴨池や養魚池などが造営され、その周辺が現在の日本庭園となりました(JTBパブリッシング「皇室ゆかりの邸宅」)。
農業や園芸の栽培・研究が宮内省所管となっても引き継がれたこと、また皇室の御料地・農園となったことが、今の景観の一部を形成したといえます。
キーパーソンは福羽逸人
新宿御苑発展に大きく関わった農学者・福羽逸人(ふくば はやと)の存在が、三つめの理由です。
福羽は、現在の庭園を直接的に形作った新宿御苑のキーパーソンです。植物御苑の総指揮者となった福羽は時勢の後押しを受け、現在とほぼ同じ形となる庭園への改造計画をフランス人造園家アンリ・マルチネに依頼しました。
福羽は最新の園芸や造園技術を学ぶため欧米をたびたび訪れており、現地でさまざまな西洋式庭園を目にしたと思われます。大規模な庭園化の計画が具体的になったのは、福羽の欧米での体験がきっかけだった可能性があります。
江戸の大名屋敷が明治に国の用地として確保され、農業試験場を経て御料地(ごりょうち。皇室の所有地)となったこと、さらに庭園化を進めた農学者・福羽の欧米での経験が、都心の緑あふれる癒やしの空間・新宿御苑を生んだといえるのです。