蒸気機関車の代名詞「デゴイチ(D51)」の後継として、国鉄最強の蒸気機関車を目指して計画された「D52」。しかし時代は太平洋戦争へ突入、この機関車は結局、「戦時量産型」として本来とは異なる仕様で誕生しました。その不運な誕生から戦後復興期におけるひそかな復活劇を振り返ってみましょう。
知られざる蒸気機関車「D52」
貨物牽引用の蒸気機関車「デゴイチ」ことD51形といえば、蒸気機関車の代名詞として広く知られています。このD51形と並んで知名度が高いのが、戦後の復興期に特急「つばめ」や「はと」を牽引したC62形でしょう。C62形は2号機と18号機に「スワローエンゼル」というつばめのマークを付けていたことなどから親しまれ、いまなお多くのファンがいます。
しかし、このC62形の原型となったD52形という蒸気機関車は、多くの人にとってあまりなじみがないのではないでしょうか。
D52形は、52という数字からわかるように、デゴイチ(D51)の後継として製造され、この車両のボイラーはのちにC62形へ流用されています。国鉄最強のパワーを持つ蒸気機関車として計画されたものの、太平洋戦争後半という困難な時代に「戦時量産型」として作られたこの機関車の実像に迫ってみましょう。
JR御殿場駅前に静態保存されているD52形72号機。1944年度計画に基づく川崎車両製。御殿場線では戦中から戦後にかけてながらくD52形が運用された(画像:写真AC)。
国鉄最強機関車を目指せ!
D52形の計画は、D51形が運用を開始した1936(昭和11)年に始まりました。そのとき主眼とされたのが、多少の重量増加があっても牽引力を向上させることでした。
D51形は全国の鉄道に配備できるように、軸重(各車輪が線路にかかる重さ)が平均14トン(2次型で14.41トン、4次型14.89トン)におさえられていました。なぜなら、線路には設計荷重や勾配など各種の等級が設けられていますが、山間部や閑散路線などは、どうしても勾配が急だったり、荷重が軽かったりといった理由から、低い等級の線路しか敷設できなかったからです。
結果、D51形は軽量化には成功したものの、荷物を積んだ貨車を引っ張る能力は950トンと、1000トンにわずかに満たない程度の数値でした。
そこでD52形は、軸重を平均16トン前後に増加させ、東海道本線や山陽本線、また北海道の一部の路線、線路等級でいうと「甲幹線」に分類される場所しか走れない代わりに、パワーを増大する方向で計画されました。
この重量増は、主にボイラーの大型化にあります。蒸気機関車の心臓ともいえるボイラーに熱を供給する火室(石炭を燃やす場所)の火床面積を、D51形の3.24平方メートルからD52形では3.85平方メートルに拡大するとともに、燃焼室を新たに設けることで燃焼効率を上げました。この結果、ボイラーそのものの大きさのみならず、圧力はD51形の14kg/立方センチメートル(初期)から16kg/立方センチメートルとなり、牽引力も1000トン以上を達成することができるように構造が変更されていました。
「戦時量産型」に設計変更
しかし、最強をコンセプトとしたD52形は設計に時間を要し、その間、日本の鉄道をめぐる状況は大きく変わっていきます。
D51形が就役した翌年に始まった日中戦争によって、大陸への軍需物資輸送のために多くの船が徴傭(ちょうよう:軍にチャーターされて戦地にかり出されること)されます。さらに太平洋戦争がはじまると、内海航路の船も多数が徴傭されて船舶が不足するようになったのです。そして、その分の貨物を鉄道で運ぶ必要が生じました。
1942(昭和17)年10月には「戦時陸運ノ非常態勢確立ニ関スル件」が閣議決定され、貨物の「陸運転換」がこれまで以上に重視されるようになります。強力な貨物用蒸気機関車の配備は戦争遂行のために必要とされましたが、それは戦時にふさわしく、材料を節約し、かつ製造が容易であることも求められたのです。これがいわゆる「戦時量産型」と称されるものです。
国鉄は1943(昭和18)年5月に「戦時設計要綱」「施行細則」を決定します。ちょうどこの頃にD52形の設計は大詰めを迎えようとしていました。この結果D52形は、開発当初とは異なる仕様の戦時量産型機関車として誕生しました。
D52の側面図。除煙板や炭水車の上部が木製である戦時量型を描いている(イラスト:樋口隆晴)。
1943(昭和18)年12月21日に初号機(D52 21)が竣工したのち、翌1944(昭和19)年には135両が製造されましたが、当初の設計と異なり、戦時量産のために工程の簡略化や使用資材の節約などがなされていました。外見に現れた特徴としては、デフレクター(除煙板)やテンダー(炭水車)上部の石炭庫側板の木製化、蒸気溜カバーの角型化などが挙げられます。さらに装備を予定されていたメカニカル・ストーカー(自動給炭装置)の廃止や、ボイラーの簡略化も行われていました。
このため、戦時の粗製乱造や検査の不足、石炭の質の低下、さらにベテラン機関士が次々徴兵されたことなどと相まって、当初期待された一般貨物列車で1000トン、石炭貨物列車で1200トンというD52形の特徴といえる牽引力を出せなくなってしまったのです。
そのうえ、大阪鉄道局に所属するD52形33両のうち12両が、1944(昭和19)年12月前半に立て続けに故障を起こし、また敗戦直前から直後にかけてはボイラーの爆発事故を起こすなどしたため、最強機関車として期待されたD52形は、一転して低性能で信頼性にいちじるしく欠ける蒸気機関車になり下がっていきました。
戦後は“転生” 復興の隠れた功労者に
D52形は戦時下の事情によって、その期待とうらはらに「使えない蒸気機関車」となりました。戦後の1947(昭和22)年から50(昭和25)年度には、285両ある所属車両のうち53両が、状態不良で廃車になる始末でした。
しかし、1951(昭和26)年度に「装備改造」が実施されます。これによりD52形は当初の設計計画どおりに戻す改修が施されたことで、一転して所定の性能を出せるようになり、信頼性も向上しました。さらに状態の良好な車両は、49両がC62形の、20両がD62形の各々の母体として転用されました。
戦後は所定の高性能を取り戻して活躍の場を与えられ、そして戦後の蒸気機関車を代表するC62形に生まれ変わったD52形は、その誕生のときこそ不運でしたが、のちの世代の礎となって日本の戦後の復興に貢献した、隠れた功労者といえる存在だったといえるのではないでしょうか。