航空自衛隊浜松広報館に屋外展示されているF-104J戦闘機は、尾翼などが赤く塗られています。これは、かつて硫黄島で運用されていたUF-104Jの塗装なのですが、F-104JとUF-104Jは何が違うのか、運用とともに見ていきます。
戦闘機運用終了後、スパーリング相手への転身
航空自衛隊がかつて運用していたF-104J「スターファイター」戦闘機は、1970年代後半には性能不足が見え始めたため、F-15J「イーグル」戦闘機に更新されて1986(昭和61)年に退役しました。ところが、それで日本の空を飛ばなくなったわけではありませんでした。
航空自衛隊浜松エアーパークに展示されているUF-104J。(柘植優介撮影)。
退役後、今度は南海の小島である硫黄島を拠点に飛ぶようになりました。しかし、そこではスクランブル任務などに就いていたわけではありません。硫黄島では戦闘機パイロットの空戦技術を向上させるための任務に就いており、そのためにF-104Jは、無人標的機に改造され、名称も「UF-104J」に改められました。
原型のF-104Jは、日本が装備した戦闘機で初めて超音速の飛行性能を有した機体でした。アメリカのロッキード製で、最大速度はマッハ2(2450km/h)、固定武装として20mmバルカン砲を1門、そのほかに空対空ミサイル「サイドワインダー」を最大4発、70mmロケット弾を最大38発搭載できました。
日本は1959(昭和34)年にF-104Jの採用を決めると、1961(昭和36)年度から6年間で230機を導入し、北海道から沖縄まで全国に配備しました。そして前述のように1986年、F-104Jは完全退役します。一方それと前後する形で、1980年代前半に程度の良い機体を無人標的機に改造する研究が始まりました。
1987(昭和62)年度に、まず2機分の改修予算が計上され、航空自衛隊岐阜基地で改修作業が始まります。ただし機体自体の改修は最小限で、予算の多くは地上側の遠隔操作機器の開発に費やされました。またこの2機は、無人標的機への改修といっても有人操縦が可能な状態が維持され、飛行テストなどではパイロットが乗り込んでいました。
硫黄島が訓練環境抜群な理由とは
各種試験と並行して、無人標的機部隊をどこに置くか検討した結果、硫黄島が最適とされます。その理由は、硫黄島が沖縄を含む日本本土から1200km以上も離れており、島の周りは海しかなく、すぐ近くには広い訓練空域が確保されているため、本土ではできない内容の濃い訓練を実施することができるからです。
UF-104Jの垂直尾翼に描かれた硫黄島無人機運用隊のマーク。サソリに南十字星をあしらったデザイン(柘植優介撮影)。
運用試験は硫黄島でも実施され、1992(平成4)年3月に部隊使用承認が下りると、臨時無人機運用隊が硫黄島基地隊隷下に新設され、2年後の1994(平成6)年3月、正式に「硫黄島無人機運用隊」が発足しました。
UF-104Jは航空自衛隊初のフルスケール、すなわち実機と同じ大きさの無人標的機であり、計14機が保管されていたF-104Jから改修されました。
最初の実弾射撃は1995(平成7)年3月に実施され、各地の戦闘機部隊から派遣されたF-4EJやF-15Jによって3機が撃墜されています。翌年にも何機か撃墜され、1997(平成9)年3月に硫黄島の最後の1機が撃墜されてUF-104Jの運用は終了しました。
こうしてUF-104Jの運用が終わったことで、硫黄島無人機運用隊も同月付けで整理(事実上の廃止)されます。2020年3月現在、航空自衛隊は実機転用の無人標的機を運用していません。
しかし、その面影は静岡県浜松市にある航空自衛隊浜松エアーパーク(浜松広報館)で見ることができます。ここの中庭にあるF-104Jが、実はUF-104Jなのです。同機はテスト機として岐阜基地で試験に供されていた機体のようで、いわば唯一残ったUF-104Jといえます。
ちなみに、F-104Jの翼端の燃料タンクは、F-4EJ改「ファントムII」などが移動を目的として飛行する際、パイロットの持ち物などを収容するトラベルポッド(カーゴポッド)として流用されています。