松永久秀というより、松永弾正といった方が通りがよいかもしれません。室町幕府の実力者、三好長慶(ながよし)の家臣として、近江(滋賀県)の六角氏や河内(大阪府東部)の畠山氏との戦いで、三好軍の中心として戦功をあげています。
1564(永禄7)年に主君・長慶が亡くなると、久秀が三好家を代表する形となり、翌年の将軍・足利義輝襲撃の際にも、三好長逸(ながやす)、三好政康、岩成友通の「三好三人衆」とともに、中心となっています。
ところがその後、三好三人衆とは対立し、1567年には、東大寺に布陣した三人衆を攻めるため、大仏殿もろとも焼き払うということもやっています。
信長と敵対するも赦免
このように、畿内で敵なしと思っていたところに強敵が現れます。織田信長です。久秀のすごいところはその戦略眼で、勝てそうもないと判断するや、すぐ恭順の態度を取れるところだと思います。1568年、久秀は当時、名器として評判が高かった「九十九髪茄子(つくもなすび)」という茶入れを信長に献上、人質も出し、臣従しているのです。
信長に擁立され、15代将軍になったばかりの足利義昭は、兄・義輝を殺したのが久秀に関係する者たちなのでその臣従に抵抗感はあったらしいのですが、信長に対する恩義もあり、黙認せざるを得なかったようです。
1570(元亀元)年4月の信長による越前攻めにも久秀は従軍しています。このとき、信長の同盟者で、信長の妹・お市の方を娶(めと)っていた北近江・小谷城主の浅井長政が反旗を翻し、退路を断たれそうになりました。久秀が信長を守って、無事、朽木(くつき)越えで京都に戻ることができたのは有名な話です。
この後、しばらくの間、久秀は信長の一部将として主に畿内の戦いに奔走するのですが、甲斐の武田信玄が上洛の動きをみせると信玄に期待を寄せ、信長から離れ始めています。信玄の病気が重かったということを久秀は知らなかったようです。このあたり、機を見るには敏ですが情報収集に甘さがあったことは否めません。
結局、1573(天正元)年4月に信玄は亡くなりますが、「信玄上洛間近」の報で強気になり、信長と戦う覚悟を固めた足利義昭は籠城した槙島(まきのしま)城を攻められ、当てが外れた形の久秀は信長に降伏を申し出ています。
信長は、一度敵対した者を赦(ゆる)すということはほとんどないのですが多分、信長としては「久秀はまだ使える」と思ったのでしょう。利用価値があるとみて赦しているのです。
謀反のタイミングを見誤る
この後、久秀は信長の本願寺攻めの一翼を担わされることになるのですが、その最中の1577(天正5)年8月、また、信長に反旗を翻しています。1回目のときは武田信玄に呼応しようとしたわけですが、2回目のこのときは越後の上杉謙信に呼応しようとしたのです。
この年うるう7月、上杉軍が能登に侵攻、信長方の七尾城を攻め、その後、9月には手取川(てどりがわ)の戦いで、柴田勝家ら率いる織田軍が上杉軍に敗れています。しかし、久秀の謀反はタイミングとしては少し早過ぎました。
それでも珍しいことに、信長はすぐには久秀がこもった信貴山(しぎさん)城を攻めさせません。家臣の松井友閑(ゆうかん)を信貴山に送り、説得させているのです。信長は久秀の武将としての力量を相当高く買っていたのかもしれません。
ただ、久秀の方も「信長が二度まで裏切った者を赦すはずはないだろう」と考えていたようで、最期は、名物茶器として有名な平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜とともに火薬で自爆したといわれています。
情報収集の不足、タイミングの見極めを間違えると身を滅ぼすという教訓を残したといえそうです。
静岡大学名誉教授 小和田哲男