居酒屋の発祥・発展
10月1日に緊急事態宣言が解除され、東京の居酒屋に人が戻ってきました。お酒好きな人なら、もう1回くらいは行かれたことでしょう。そんな居酒屋ですが、皆さんはいつ発祥したのかご存じでしょうか?
江戸時代は、食文化が飛躍的に発展した時代でした。
「京都の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の呑み倒れ」
という言葉があるように、居酒屋が現れたのは江戸時代でした。
食文化史研究家・飯野亮一の「居酒屋の誕生」(筑摩書房)によると、1811(文化8)年には、江戸に1808軒の居酒屋(当時の煮売り酒屋)が存在しており、居酒屋は飲食業をリードするまでに発展していました。なお煮売りとは、飯や副食物とする魚・野菜・豆などを煮て売ることで、その煮売りを兼業した居酒屋が煮売り酒屋です。
歴史学者・北原進の「百万都市 江戸の生活」(KADOKAWA)によると、当時の江戸の人口は少ないときで約100万人、通常は120万人程度だったといいます。そのうち、武家の人口は50数万人を占めていました。その背景には、江戸が将軍のお膝元であり、地方の大名たちが常に江戸に参勤していたことがあります。
残りは町人で、その数は
・1733(享保18)年:約53万人
・1747(延享4)年:約51万人
・1832(天保3)年:約54万人
・1844(弘化元)年:約55万人
と年を経るにつれて、増加していきました。特に1700年代前半は人口の男女比率が不均衡で、男性が圧倒的に多かったのです。
実際、1721年の江戸の人口は50万1394人で、男性は32万3285人(64%)でした。なお1733年は、男性人口が34万人(64%)に対して女性が19万人、1747年は、男性が32万人(63%)、女性が19万人でした。居酒屋の発祥・発展に影響を及ぼしたのは、こうした社会構造でした。
発展の背景にあった社会構造
江戸の酒屋は独り身や労働者の人たちが気軽に酒が飲める場所でした。酒を量り売りし、店先でも飲めました。これを「居酒(いざけ)」といいます。
そうした酒屋のなかで、新たなビジネスモデルを使って繁盛した店があります。それが、神田鎌倉河岸(千代田区内神田)にあった「豊島屋」です。
豊島屋は当時から居酒を提供。1736(元文元)年には酒だけでなく、田楽も安く売り、大繁盛していました。現在も千代田区(神田猿楽町に移転)で酒屋として営業しており、江戸時代に人気を博した白酒も、ひな祭りの時期に期間限定で販売されています。
そして1748年から1751年頃にかけて、居酒屋という言葉が使われ始めました。
当時、飲食を提供する場所としての居酒屋は、酒をメインで提供する酒屋とは別業種として区別されていました。酒屋から居酒屋へ転業したり、煮売り茶屋から居酒屋へ転業したりと、年月を経て前述の煮売り酒屋という業種が発展しました。
参勤交代は現在の単身赴任であり、武士も自炊をしなければなりません。また、町民の男性もまた自炊が必要でした。長屋に住む独身男性が狭い台所で、しかも火をおこすことはとても面倒な作業でした。
そうしたことから、彼らは気軽に飲食できる酒屋や煮物を売る煮売り茶屋を利用することが多く、結果、酒と食べ物を提供する居酒屋という形態の業種が生まれ、発展していったのです。
上方より江戸のほうがおいしい酒が飲めたワケ
食文化はもともと、江戸より上方(京都およびその周辺)のほうが発展していました。酒も同様です。そのため、伊丹や池田、灘などで作られた酒が江戸まで運ばれ、飲まれていました。これを「下り酒」といい、そのなかでも、伊丹や灘の酒の名声は高いものでした。
酒は元々、上方から馬で陸送されていましたが、寛永年間(1624~1644年)にはたる回船で運ばれるように。その後、正保年間(1644~1684年)には、菱垣廻船(かいせん)で大量に輸送することが可能になりました。さらに1730(享保15)年からは、より速度の速い酒専用のたる回船で運ばれるようになり、多くの酒が上方から江戸へ供給できるようになったのです。
1724年から1731年までの酒の年間平均積載量は、約22万だるに上りました。この傾向は長く続き、1795(寛政7)年から1801(享和元)年までの年間平均積載量は約81万だるとなりました。1たるは4斗(18l)入りで、1.8lの瓶40本分です。
江戸での下り酒の需要が高かった理由のひとつが、味です。
江戸に運ばれたのは、諸白酒(もろはくざけ。麹米、蒸米とも精白した米で造った酒)でした。船で輸送されている間に酒は熟成し、味が変化。まろやかで芳醇(ほうじゅん)な香りになっていたといわれています。
出荷元である上方は、江戸まで輸送したたるを江戸で下ろさず、いくつか残したまま上方まで再度運んでいました。なお、上方ではその酒を富士見酒と呼び、称賛していました。
このように江戸への輸送時間がおいしい酒を造り、その酒が江戸の人たちを魅了していたのです。酒の味がよく需要が高かったことは、提供する居酒屋の発展にも影響を及ぼしたと考えられます。
酒好きな江戸の人たち
慶安年間(1648~1652年)には飲酒量を競う「大酒会」などが盛んに行われ、ときを挟んで、19世紀に入って再び行われるようになりました。
そのなかでも、有名な催しが江戸四宿(品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿)のひとつである千住で行われた千住酒合戦です。
この大酒会の記録はさまざまな書籍に残っており、当時の狂歌のスーパースターだった大田南畝(なんぽ)も、これについて記述を残してています。また、ニューヨーク公立図書館には、そのときの様子を描いた絵巻「高陽闘飲図」が所蔵されています。この酒合戦は、千住の商家・中屋六右衛門の還暦を祝うもので、多様な人たち総勢約100人が参加しました。
江戸文化研究者・田中優子の「江戸はネットワーク」(平凡社)によると、参加者の飲酒量はかなりのものでした。
例えば、62歳男性は3升5合(6.3l)、大長という男性は4升と次の朝に1升5合、ある農民はとうがらし三つをさかなに4升5合、米屋の者は3升7合、小山(栃木県)の者は7升5合など酒を飲んだといいます。
そのほか、この酒合戦には浅草や馬喰町から駆けつけた者や、芸者や飲食店の女性、江戸の文芸人たち、会津からの旅人なども参加していました。
ここから分かるのは、男女・職業を問わない多様な人たちによる酒を通じた交流や、江戸の人たちの酒好きです。こうした人たちが、日常生活の中で気軽に飲める場所が江戸の居酒屋だったのです。
居酒屋のメニューを今に食す
当時の江戸の居酒屋メニューで今も食されているのは、
・ふぐの吸い物
・アンコウ汁
・ねぎま鍋
・マグロの刺し身
・湯豆腐
などです。
江戸時代の汁は現在のおかずのようなもので、ご飯に添えました。アンコウは当時から高級魚とされていました。都内唯一のアンコウ料理専門店「いせ源」(千代田区神田須田町)のルーツは、1830(天保元)年に現在の京橋3丁目付近でどじょう屋を営んでいた「いせ庄」で、大正時代にアンコウ料理専門店に業態替えしています。
ねぎま鍋は、マグロのトロとねぎを一緒に煮た料理です。マグロは当時、下魚として扱われていたため値段も安く、特にトロは保存が難しかったため、庶民の間では、ねぎと一緒に食べられていました。これが居酒屋の定番となったのは、マグロの豊漁がきっかけでした。
そんなねぎま鍋ですが、「浅草一文本店」(台東区浅草)で江戸野菜の千住ねぎを使った江戸のねぎま鍋を食べられます。
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これまで、江戸の居酒屋の発祥と発展を見てきました。その理由は
・江戸の社会構造による需要の高まり
・江戸の酒のおいしさ
・多様な人たちが楽しめる場の存在
にまとめられます。
季節ももう冬。皆さんも今年は、お酒とお鍋で冷えた体を温めてはいかがでしょうか?
●参考文献
・飯野亮一「居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化」(筑摩書房)
・北原進「「100万都市 江戸の経済」(KADOKAWA)
・田中優子「江戸はネットワーク」(平凡社)