東京23区内で、とりわけ利用者の少ない駅のひとつに、東武スカイツリーラインの堀切駅があります。荒川の土手下にある行き止まりに位置し、そもそも駅名は対岸の地名……どうしてこうなったのでしょうか。
「この先行き止まり」の路地を進むと駅が…
東京都23区内にあるJRの駅で、1日の乗車人員がもっとも少ないのは京葉線 越中島駅(東京都江東区)の5910人(2019年度)ですが、私鉄には、それを下回る駅がいくつか存在します。そのひとつに挙げられるのが、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の堀切駅でしょう。
北千住から浅草寄りに2駅目となる堀切駅の乗降人員(乗車人員ではなく「降車」も合わせた数字)は4498人(2019年度)。浅草~東武動物公園間でもっとも利用者が少ない駅です。そもそもこの駅、立地も少々不思議です。
堀切駅。荒川の土手の直下に位置する(2020年12月、中島洋平撮影)。
駅の東口から階段を上がると、そこは荒川の土手です。西口は、都道(墨堤通り)から「この先行き止まり」とだけ書かれた看板が立つ道を進んで、堤防の壁に突き当たる、その行き止まりに面しています。実際に行ってみると駅前に目ぼしい店などなく、前後の牛田駅や鐘ヶ淵駅前の賑わいとは対照的な閑散ぶりでした。
「堀切」という駅名にも疑問が残ります。堀切駅は足立区千住曙町に位置し、近くには荒川に架かる堀切橋があるものの、「堀切」自体は対岸に位置する葛飾区の地名なのです。エリアとしては京成本線の堀切菖蒲園駅付近を指します。
なぜこのような場所に、しかも対岸の地名を冠して駅ができたのでしょうか。実はこの駅名こそが、堀切駅の歴史を物語っていました。
もともとの駅の位置は「荒川のなか」
もともと堀切駅は現在よりも東側、堀切菖蒲園寄りに位置していました。その場所はいま「荒川のなか」です。
この荒川は正式には荒川放水路といい、かつて暴れ川と呼ばれた荒川(現在の隅田川)の水害から東京を守るために開削された、人工の河川です。かつての東武線は、鐘ヶ淵~牛田間で現在よりも東寄りの経路をとっていましたが、放水路にかかってしまうため、1923(大正12)年、放水路の堤防に沿う現在のルートに変更。途中にあった堀切駅は現在地へ移設されました(正式にはルート変更前にいったん廃止、1924年に現在地で開業)。
『東武鉄道百年史』によると、ルート変更により、堀切駅の前後は大きくカーブする線形になったとのこと。鐘ヶ淵駅側のカーブ付近で、上り線側に東武鉄道の変電所や従業員住宅が立つのは、旧線が通っていた名残だそうです。
荒川の堤防沿いを行く東武線。堀切駅の南側も、荒川と隅田川を結ぶ水路が通っている(2020年12月、中島洋平撮影)。
また初代の堀切駅は、江戸時代から花の名所である堀切菖蒲園の最寄り駅として紹介されていたといいます。しかし移設により菖蒲園と離れてしまったのち、1931(昭和6)、京成本線に菖蒲園の最寄りとなる堀切菖蒲園駅が開業しました。
このような経緯から、荒川沿いにひっそりと立つことになった東武の堀切駅ですが、駅に隣接する旧足立第二中学校の跡地に2007(平成19)年、東京未来大学が進出するなどして、閑散駅ながらも乗降人員は直近20年間で1.6倍に増えています。ちなみに、この旧足立二中や、堀切駅周辺の荒川の土手や緑地は、テレビドラマ「3年B組金八先生」のロケ地として知られます。