東京由来の名前を持つグループが多い時代
最近の女性アイドルはグループアイドル全盛ですが、そこでひとつ気づくのは東京の地名をもとにしたグループ名が多いことです。
秋葉原の劇場公演からスタートしたAKB48、坂道シリーズと呼ばれる乃木坂46、欅坂46、日向坂46など。東京由来の名前を持つグループが同時にこれほど多く活躍する時代は、アイドル史上初めてかもしれません。
ただそうしたグループのセンターや中心メンバーのなかに、東京出身者は乃木坂46・齋藤飛鳥などいないわけではありませんが、あまり見当たりません。
例えば、前田敦子、大島優子、指原莉乃、生駒里奈、白石麻衣、西野七瀬、平手友梨奈、小坂菜緒などはいずれも東京以外の出身です。
それはいまに限ったことでもなく、1970年代の森昌子、桜田淳子、山口百恵の「花の中3トリオ」、ピンク・レディー、1980年代の松田聖子など一世を風靡(ふうび)したかつての人気女性アイドルもそうでした。
流行語になった「普通の女の子に戻りたい」
とはいえ、もちろん東京出身で活躍した女性アイドルもいないわけではありません。以下では、そんな東京出身女性アイドルを何組か振り返ってみたいと思います。
まず1970年代にはキャンディーズがいました。メンバーのラン(伊藤蘭)、スー(田中好子)、ミキ(藤村美樹)は、3人全員が東京出身。アイドルグループでこのようにそろうのは、とても珍しいケースでしょう。
キャンディーズと言えば、トップアイドルの地位にあるなかでの突然の解散宣言が有名です。1977(昭和52)年、日比谷野外音楽堂でのコンサート中、ステージ上でのことでした。そのときランが泣きながら言った「普通の女の子に戻りたい」は流行語にもなりました。
キャンディーズの最後のコンサートは、1978年4月の後楽園球場。5万人以上の観客を集めておこなわれました。そのときの様子は、いまも伝説として語り継がれています。
洋楽志向が強かったキャンディーズ
彼女たちの魅力としては、まず音楽性の高さがあるでしょう。
「ハートのエースが出てこない」(1975年発売)などで聞かせるハーモニーは美しく、洗練された魅力がありました。洋楽志向が強く、彼女たちの歌を支えるサウンド面も充実していました。
もうひとつは、バラエティーでの活躍です。ドリフターズや伊東四朗・小松政夫などそうそうたるコメディアンたちと共演して堂々と渡り合う姿は、バラエティー出演が当たり前になっている、現在の女性アイドルの先駆けでもありました。
続く1980年代で挙げるとすれば、中森明菜でしょうか。
1980(昭和55)年歌手デビューの松田聖子の後に続いたのが、いわゆる「花の82年組」です。松本伊代、堀ちえみ、早見優、石川秀美などが続々デビューしたなか、小泉今日子と人気面で双璧をなしたのが中森明菜でした。
自己プロデュース力にたけた中森明菜
ブレークのきっかけとなった「少女A」(1982年発売)がタイトル通り10代の少女のちょっと危険な大人びた恋愛を歌ったように、彼女はその早熟な雰囲気で私たちを驚かせました。
その後も「十戒(1984)」(1984年発売)など同様の曲調のヒット曲を連発し、松田聖子の「ぶりっ子」に対する「ツッパリ」の代表として一時代を築いていきます。
そんな彼女の真骨頂は、類まれな自己プロデュース力にありました。
中森明菜は楽曲に合わせて自ら衣装や振り付けを決めていました。「DESIRE -情熱-」(1986年発売)のウイッグと着物風の衣装、独特の振り付けは代表的なものです。
それは、まだ周囲から言われるがまま、受け身の存在だった当時のアイドルのなかでは異質でした。同期のライバルだった小泉今日子も似た部分があり、そうした自己プロデュース力がふたりを突出した存在にしていた理由のひとつでしょう。
さまざまなジャンルで活躍した宮沢りえ
1980年代の終わり、つまり昭和から平成の変わり目に登場したのが宮沢りえです。
彼女は歌ではなく、CMからスタートしました。ブレークのきっかけになった「三井のリハウス」(1987年)のCMは鮮烈でした。転校生・白鳥麗子としてそこに登場した宮沢りえは、際立った美少女性でたちまち多くの人びとを魅了しました。
その後彼女は、ジャンルの垣根を軽々と飛び越えて活躍の場を広げていきます。ドラマ、映画への出演はもちろんのこと、歌手としても1990(平成2)年の『NHK紅白歌合戦』に出場。またとんねるずの番組ではコントに挑戦し、「ざけんなよ!」の決めゼリフで意外な一面を見せました。
それだけではありません。自分のカレンダーで“ふんどしルック”になって世間をあっと驚かせたかと思えば、ミリオンセラーとなった写真集『Santa Fe』(1991年)では10代でヌード姿を披露し、センセーショナルな反響を呼びました。いわば彼女は、“サプライズの天才”でした。
性同一性障害の中学生を演じて話題となった上戸彩
1990年代後半から2000年代にかけては、上戸彩がいます。
彼女のスタートは、芸能事務所・オスカープロモーションが開催した「第7回全日本国民的美少女コンテスト」(1997年)でした。このとき彼女はまだ12歳で審査員特別賞を受賞。その後歌手活動もしましたが、次第に女優業が中心になっていきます。
女優・上戸彩にとって転機になったのが、2001(平成13)年から2002年にかけて放送された『3年B組金八先生』(TBSテレビ系)の第6シリーズでした。
そこで彼女は、学園ドラマにありがちなマドンナ役ではなく、性同一性障害の中学3年生役を演じました。当時はまだ「LGBT」という言葉も一般的ではなく、セクシュアリティへの理解も進んでいない時代です。しかし上戸彩は期待に応え、その難しい役どころを見事に演じました。
「美少女」という固定観念にとらわれない彼女の自然体のスタンスは、このときから発揮されていたと言えるでしょう。
「わが道を行く」東京出身の女性アイドル
こうした東京出身女性アイドルの共通点をひとつ挙げるとすれば、「型にはまらない」ということでしょうか。
既成の常識にとらわれず「わが道を行く」タイプが、東京出身の女性アイドルには多いように思えます。
彼女たちはアイドルでありながらアイドルの枠を超える大胆さ、意志の強さで強烈なインパクトを残してきました。それは大都市・東京ならではの良い意味での個人主義、独立独歩の精神のなせる業なのかもしれません。