世界最大の戦艦として知られる旧日本海軍の戦艦「大和」。アメリカの新型戦艦との砲撃戦を想定して、装甲防御力も格段に強化していました。その強力な防御力の一端をはかり知ることができる遺構がアメリカ本土に残されています。
「長門」と比べて装甲の厚さ1.3倍
旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」は、最強の砲撃力を誇る46cm砲を9門搭載していました。しかし、「大和」の凄さは主砲だけではありません。「大和」は防御力も従来の戦艦を凌駕していました。
旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」(画像:アメリカ海軍)。
「大和」の前に日本で建造された戦艦は、1920(大正9)年に進水し、翌1921(大正10)年に就役した長門型の2番艦「陸奥」です。「大和」は1940(昭和15)年に進水し、翌年の1941(昭和16)年に就役したので、両艦は20年の開きがあります。そのため、防御力も「陸奥」が垂直装甲(舷側防御)で305mm、水平装甲(甲板防御)で176mmなのに対し、「大和」は垂直装甲で410mm、水平装甲で230mmと、約1.3倍の厚みになっています。
この装甲板の厚さは、約20kmから30kmほどの射距離で放たれた自らの46cm砲の射撃に耐えられるように設計されたものです。同時期に建造されたアメリカの戦艦を見てみると、「大和」と同年の1941(昭和16)年に就役したノースカロライナ級戦艦や、翌1942(昭和17)年に就役したサウスダコタ級戦艦は16インチ(40.6cm)砲を装備していました。この砲の場合、射距離3万ヤード(約27.4km)での装甲貫徹力が垂直324mm、水平194mm、もう少し近づいて射距離2万5000ヤード(約22.8km)だった場合でも垂直382mm、水平146mmなので、「大和」の装甲は数値上では十分耐えられることがわかります。
ちなみに、アメリカのノースカロライナ級戦艦やサウスダコタ級戦艦は、垂直装甲で324mmと329mm、水平装甲で140mmと146mmであり、「大和」が持つ46cm砲では、数値の上では射距離30kmにおいて余裕で貫徹できる威力を有していました。
首都ワシントンに展示される大和型戦艦の遺品
とはいえ、「大和」はアメリカ戦艦と砲撃戦をしていません。しかし、実はアメリカには、実際に米軍が砲弾を撃ち込んでテストした大和型戦艦の装甲が残されており、これが大和型戦艦の防御力の高さを判断するひとつの資料となります。
アメリカのワシントンD.C.にある国立米海軍博物館に屋外展示されている26インチ装甲板。アメリカは戦後16インチ砲で射撃試験を行っている(画像:アメリカ海軍)。
展示場所は、アメリカの首都ワシントンD.C.にある国立アメリカ海軍博物館で、一見すると何の鋼板なのかわかりませんが、説明板には「use in Japanese Yamato class battleship」と書かれています。
ただし、大和型戦艦は「大和」と「武蔵」の2隻が完成しましたが、両艦とも海没しています。それでは、この装甲板の出自はというと、太平洋戦争終結時に呉海軍工廠亀ヶ首射撃場に残されていた試験用のものです。厳密にいうと大和型戦艦の主砲防盾に用いられた装甲板とほぼ同じもので、主砲防盾とは、砲塔前面、すなわち主砲付け根周りの装甲板であり、厚さは660mmあります。
テストのために旧海軍が試験場に設置していたものをアメリカが接収し、自国戦艦の16インチ砲で射撃したもので、装甲板には砲弾が貫いた破孔が開いています。
なお、かたわらの説明板には「アメリカ海軍の標準的な16インチ徹甲弾で射撃した」と書かれているだけで、具体的な射距離や用いた16インチ(40.6cm)砲の種類などはわかりません。
ひと口に「16インチ砲」といっても種類があり、アメリカ海軍の公式データでは、前述のノースカロライナ級やサウスダコタ級戦艦の16インチ砲で660mmの装甲板を貫こうとした場合、射距離1万ヤード(約9.14km)では不可能で、さらに近づいて5000ヤード(約4.57km)の至近距離でようやく貫徹できます。
太平洋戦争後半に登場したアイオワ級戦艦の新型で強力な16インチ砲なら、同じく公式データ上では射距離1万ヤードで垂直装甲の貫徹力が664mmなので、この強力な砲ならその距離でなんとか貫けます。ただし、そこまで近づかないと無理ということであり、いかに「大和」の防盾が厚かったかわかります。
「大和」「武蔵」は砲撃ではなく魚雷で海没
単純に数値だけで比べると、大和型戦艦は、太平洋戦争後半に登場したアイオワ級戦艦にも勝てるだけの火力と防御力を備えていたといえるでしょう。
1945(昭和20)年4月7日、アメリカ軍の空母艦載機の攻撃を受ける「大和」(画像:アメリカ海軍)。
ただし、これはあくまでも数字の上での話です。アメリカ海軍はいち早くレーダー管制射撃を導入しており、射撃の正確性、すなわち命中精度に関しては旧日本海軍の光学式照準を凌駕していました。光学式照準は将兵の視力などに左右されるため、夜間や雨天などで外的要因に左右されることなく、安定して高い命中精度を確保するレーダー管制射撃との差は大きいものでした。
しかも、「大和」も「武蔵」も砲撃戦でなく、アメリカ海軍の空母艦載機の猛攻で沈みました。特に両艦にとって致命傷となったのは、喫水線下に被害を与えた魚雷で、1944(昭和19)年10月24日に沈んだ「武蔵」は魚雷の命中が20本(軍艦武蔵戦闘詳報)、翌年の1945(昭和20)年4月6日に沈んだ「大和」では魚雷の命中が12本(防衛研究所戦史「沖縄方面海軍作戦」)とされています。
このように、大和型戦艦は、敵戦艦との砲撃戦に備えて極厚の装甲板を装備したのですが、結局それを生かすことはできずに航空攻撃によって力尽きていきました。
アメリカ海軍は、自国戦艦が搭載した16インチ(40.6cm)砲の威力を示すために、この装甲板を保存展示しているようですが、これは起こることなく終わった日米の戦艦の「夢の跡」なのかもしれません。