若者でにぎわう「シブヤ」を抜けた先に
JR山手線で渋谷駅に着きました。そして109方面へ向かおうと思いますが……あーもう早速、どの出口から出ればいいのか、よくわかりません!
東京に20年以上住んでいるのに、渋谷駅前が複雑で、何だかよくわからないのは僕だけでしょうか。結局いったん地下鉄の通路まで降りて地図を見て、ようやく出口を見つけました。
そんな苦労を経て、やっと外に出ると――この日は一応「まん防」中なのに人がたくさん、それも大量の若者であふれています。自分の群衆のひとりだから、文句を言うのは筋違いですが、なんでこんなに人がいるのか。取りあえず109を右手に見上げつつ、道玄坂を上ります。
ちなみに渋谷駅の西側に道玄坂、東側に宮益坂が延び、駅は2本の坂に挟まれた谷底にあります。「渋谷」の「谷」は谷底だから「谷」なんですね。今でこそ一大繁華街の渋谷ですが、元々は崖に挟まれ川が流れる農村地帯だったそうです。
とにかく若者だらけで、僕はいたたまれない気分です。集団アイドルの歌が大音量で流れ「やべー、マジでやべー!」と若者が絶叫していて、スマートフォンをガン見して突進してくる若者をよけるのも疲れます。道玄坂の歩道に「時の化石」と題したアートが置かれていますが、誰も見ちゃいません。
チェーンの居酒屋と回転ずし、カラオケにビリヤード……10分くらい歩いたでしょうか。坂を上るのも疲れたなと思う頃、右手に道が分かれ「しぶや百軒店(ひゃっけんだな)」のゲートが立っています。くぐった先には無料案内所と「道頓堀劇場」(渋谷区道玄坂2)があり、ちょっと色っぽい感じ。駅からここまで若者、というか「子どもの街」の印象でしたが、ここで大人の雰囲気が漂い始めます。
色っぽい店だけじゃありません。道を進むと極細の脇道に雰囲気のいい焼き鳥屋があり、石造りのライブハウスに昭和初期創業の枯れた風情の喫茶店も現れ、何だか渋谷じゃないみたいです。
道の突き当たりに、千代田稲荷神社の小さな赤い鳥居が立っています。その隣はなんと……ラブホテルです。左折して道なりに進むと、前方に再び「しぶや百軒店」のゲート。くぐった先で住所が「円山町」に変わり、そして……右も左もラブホテルだらけ。
坂の上にできた花街
道玄坂を上った先にある円山町かいわいは、昔は「荒木山」と呼ばれ、明治時代初期までは廃屋とやぶだけがある場所だったそうです。
円山町から西へ下った先の谷底に、かつて「神泉谷」があり、ここから清水が湧き出ました。これが弘法大師の開湯伝説と結びついて「弘法湯」として人気を集め、明治中期には料理屋兼旅館「神泉館」が開業。同じ頃に品川と赤羽を結ぶ鉄道「品川線」(JR山手線の前身)の渋谷駅も開業し、弘法湯のかいわいは湯客でにぎわい始めます。
程なく湯あみ客を目当てに、芸者を置く料亭が開業。そして道玄坂から神泉に抜ける道沿いに、料亭が次々に開業し、花街に変わっていきます。
さらに明治末期になると、代々木練兵場が設置され、軍人や軍関係者が遊びに来るようになります。そうなると、狭い神泉谷かいわいの店だけでは客をさばききれず、花街は道玄坂の上の荒木山に広がっていきます。
1913(大正2)年、地元の人々が荒木山を整備して三業地の許可を得ます。芸者を派遣する「置き屋」と、客が芸者と遊ぶ「待合」、そこに料理を仕出しする「料亭」の三業がそろい、荒木山は「郊外の花街」として活況を呈します。大正時代の後半には100軒近い待合が並び、芸妓(げいぎ)も400人以上いたそうです。
1923年、関東大震災。しかし渋谷地区の被害は少なく、千代田稲荷を中心とするかいわいに、浅草や銀座など被災した下町の名店を集めて商店街が作られます。これが「百軒店(ひゃっけんだな)」です。
昭和30年代は粋な「大人の遊び場」
百軒店は大いににぎわい、隣接する荒木山も「円山町」に名を変えて、合わせて発展していきます。当時は坂の下にある花街が多い中、丘の上に「坂を上って来ていただく」ため、円山町の店は精魂込めて客をもてなしたそうです。
しかし銀座や浅草の復興が進むと、誘致された店が次々に戻り、円山町を去っていきます。そして第2次大戦が起こり、1945(昭和20)年の東京大空襲で、円山町の大半が焼失してしまいます。
それでも焼け残った数軒を基盤に、戦後の円山町は花街として復活します。戦後は政財界要人の客が多く、夜ごと黒塗りの車が乗りつける風景が、そこかしこで見られたとか。さらに昭和30年代に入ると、ジャズやロックが流れる音楽喫茶、映画館などが並び、文化の発信地としても発展していきます。
花街の三味線の音色と、ジャズが流れる夜の街。米兵も闊歩(かっぽ)する昭和30年代の円山町は、渋谷のほかの街とは一線を画する「大人の遊び場」でした。
しかし1964(昭和39)年の東京オリンピックの頃から、料亭でゆったりくつろぐ「大人のぜいたく」は衰退し、お座敷よりもバーやクラブで遊ぶ人が増えていきます。料亭や置き屋が1軒また1軒と廃業し、跡地に立つのはラブホテル。バブル時代にホテルが繁殖し、いつしか円山町は「ラブホテルの街」に変わってしまいました。
それでも近年はライブハウスが増えて、円山町はかつての「文化の発信地」の雰囲気を取り戻しつつあります。粋なビストロやスタンディングバーも増え、渋谷駅前で騒ぐ「子どもたち」とは一線を画して、大人の夜を過ごす人も多いようです。
道ばたに残る歴史の香り
ラブホテルに真隣に公園「円山児童遊園」(円山町9)があります。ここで児童を遊ばせていいのでしょうか。と言っても狭い公園にはパンダ型とライオン型の遊具とトイレがあるだけで、遊んでいる子どもいませんが。
またホテル街の一角に、竹垣を巡らせた、風情豊かな元・料亭らしき店があります。そのすぐ近くにはお地蔵さま「道玄坂地蔵」の姿も。約300年前に建てられた、霊験あらたかなお地蔵さまです。
千代田稲荷も1457(長禄元)年に、太田道灌が江戸城を建築したとき、京都の伏見稲荷を勧請(かんじょう)したことに始まるそうです。一見するとラブホテルだらけで、街歩きには腰が引ける円山町ですが、実は随所に花街の風情や歴史の香りが残っているんですね。
ホテル、いい感じのワインバル、またホテル、歴史を感じるおでん屋。そんな感じで道を進むと――道ばたに突然下り階段が延び、下った先の谷底のような場所にも路地が通り、街があります。
石の階段は急で、しかも途中で砕けて割れたりしています。踏み外さないよう慎重に下り、下りきった正面に――ものすごく古いアパート。そしてカンカンと踏切の音が聞こえます。
京王井の頭線の神泉駅が、すぐそこに見えます。渋谷から1駅ぶん、歩いてしまったわけですが、かつて「神泉谷」があったから神泉駅。そして駅前東側の住所は、引き続き円山町です。
カンカンカン、再び踏切の警報機が鳴り、列車がガタンゴトンとやって来て、駅のすぐそばに2本延びるトンネルの1本をくぐっていきます。石段のそばには古いアパート、2階の窓にさびた手すり、揺れる洗濯物。
昭和40年代の、下町のような風景。メガ繁華街、渋谷の一角に、こんな場所があるなんって。いっぽうで路地の奥にはまだ数軒、ラブホテルの看板も見えて、夕暮れの路地を歩いていくカップルもいます(余計なお世話ですね)。
暮れなずむ中、目の前でポワンと赤ちょうちんがともり(この日はまん防中)、これまた年季の入った小さな居酒屋に入ってみました。
渋谷なのに、下町のよう
カウンター席は、すでに常連らしきオジさん客でほぼ埋まっていますが、端っこに1席だけ空いています。でも僕は一見だし「いいのかな」と戸惑っていると、ご主人が「どうぞー、奥の席へ」と声をかけてくれました。レモンサワーをもらい、一息つきます。
メニューは特になく、カウンターの上に大皿に盛った料理が並んでいます。これを適当に頼めばいいのかな――と端っこの席から遠目に見ていると、
「どうぞー、近くで見て選んでください」
とご主人。マカロニサラダと鶏手羽先の煮物を頼むと、まず「マカロニいきまーす、どうぞー」とマカロニサラダが出てきました。続いて軽く温めた手羽先も「手羽先いきまーす、どうぞー」。レモンサワーのお代わりを頼むと「レモンサワーいきまーす、どうぞー」。何だか楽しい店です。
店の外からカラオケの歌声が聞こえてきます。若い男が歌っているのか、がなりたてるだけのやかましい歌声に、客の常連オジさんたちも思わず顔を見合わせて苦笑い。
「この辺も、ロクでもない店が増えたなー」
「しょうがないよ、ここ渋谷だもん」
「でも、まん防だってのに深夜までデカい声で歌ってさ、寝られやしないよ」
「そういう街に住むお前がいけないんだよ」
「お前だって住んでんじゃん」
あはは、渋谷にいる感じが全くしません。
円山町がラブホテル街であることは知っていました。でもその一角に、こんな雰囲気の店や街があるのは、知りませんでした。
お会計を頼むと「……せん950円です」とご主人。1950? それとも2950? 正解は1950円。常連オジさんのひとりが「ここのマスター〈に〉が言えないの」と笑って言いました。
坂を上り、わざわざ訪ねてくる人をもてなした街、円山町。その雰囲気が、かつて神泉谷だったこのかいわいに、残っているのでしょうか。そんな風に思いつつ、神泉駅から井の頭線に乗り、円山町をあとにしました。