名前から漂う「ローカルな感じ」
都内にはかつて、地域の由緒を感じさせる町名が多くありました。しかし、現在では新宿区の牛込エリアなど一部の地域をのぞき、多くの地名が失われています。なぜなら、1964(昭和39)年の東京五輪を契機とした住居表示が実施されたからです。
住居表示の実施で住所は整理され、郵便配達は便利になり、その地域を訪れたことのない人にとっても、住所はわかりやすくなりました。一方、町名を統合し、同じ町名で1丁目、2丁目と振り分けていったため、由緒ある多くの町名が消えることになったのです。
それでも旧町名が数多く残っているのが、バスの停留所です。
例えば、新宿駅近くの甲州街道沿いにある都営バス・小田急バスのバス停は「角筈(つのはず)二丁目」となっています。都営バスだと、新宿西口から新宿車庫前行きに乗車してふたつ目、まだ新宿の街なかですが、バス停の名前は「角筈二丁目」。なんとも、ローカルな感じがします。
角筈は元々、現在の歌舞伎町から新宿駅周辺、西新宿までの広いエリアに存在した町名です。しかし住居表示の実施で、西新宿、歌舞伎町、新宿などに分割され、住所は消滅。ただ、いまだに角筈区民センター(新宿区西新宿)という施設があるので、比較的メジャーな旧町名といえるかもしれません。
東京駅近くにもあった
東京駅の八重洲口から湾岸方面向かう都営バスに乗車すると、「通り三丁目」というバス停に出会います。
東京駅が真正面に見える、東京のメインストリートのような場所のため、こういう名前なのかと思いきや違います。これも旧町名を用いたバス停です。
このエリアは元々、江戸時代初期に日本橋が架けられて以来「通(とおり)」という町名で呼ばれ、1~3丁目までありました。
「○○通りのような地名は東京のあちこちにあるのでは?」
と思いますが、江戸の中心地だった日本橋を通る道という意味のため、「通」だけで構わないことになったようです。
その後、日本橋区と京橋区が1947(昭和22)年に合併した際、旧日本橋区は町名に「日本橋」を付けることを決めたため「日本橋通1~3丁目」となりましたが、住居表示の実施で消滅。バス停だけに名前が残ることになったのです。
変わり種の例もアリ
このような例は、東京のあちこちにあります。
行き先表示でよく見かける都営バスの「浅草寿町」は現在の台東区寿4丁目の旧町名です。江戸川区東葛西1丁目にある「桑川町」も旧町名です。
足立区足立1丁目には、東武バスの「高砂町」があります。これは周辺地域が高砂町、千住高砂町だったことに由来するもの。また、清瀬市の柳瀬川通り沿いには「下戸」「下田」「台田」「畑川原」という西武バスのバス停があります。これも今では住居表示で失われた町名の名残です。
少々変わり種ですが、大森駅と蒲田駅の間にある東急バスの「大田文化の森」というバス停は、以前は「元区役所」という名称でした。通例、施設の改廃があるとバス停の名前も変更になります。
最近だと2019年に都営バスの「池袋保健所」は、豊島区役所や豊島公会堂の敷地の再開発に合わせて「Hareza池袋」に変更されました。大田区の場合、区役所が蒲田に移転してから大田文化の森ができるまで時間がかかったため、元区役所という名称になっていました。
旧町名が復活するケースも
かつての街の記憶を残すバス停ですが、一方、バス停に旧町名が復活するケースもあります。
品川区西大井2丁目にある、東急バスの「大井原町」というバス停がそれです。このバス停は元々、「原小学校」という名称でした。この小学校は品川区の政策で近くの伊藤中学校と合併し、区立小中一貫校の伊藤学園に再編されました。
このため、バス停の名称を変更することになり2007(平成19)年に旧町名を採用して「大井原町」に改められました。
東京で住居表示が実施されてから、既に半世紀あまりが過ぎていますが、今でも旧町名に愛着を持っている地域は少なくありません。町内会も旧町名ごとという地域も、まだ見られます。
そして愛着を持つ人は東京だけには限りません。
旧町名の復活は「町のルーツ」を語るもの
全国でもっとも旧町名の復活が盛んなのは、石川県金沢市です。
同市では、1999(平成11)年に最初となる旧町名の復活を実施後、多くの復活が実現しています。ただ、企業は名刺やハンコなどを新調しなくてはならず、金融機関は担保になっている不動産の登記も変更する必要があります。
金沢市の場合は市民の間で機運が盛り上がり、実現にこぎ着けた幸運な事例です。先例があることは、東京でも状況を変えられる可能性があります。
新宿駅の所在地は本来の新宿ではなく角筈。両国は元々、隅田川西岸の中央区側の地名などなど……旧町名の復活は町のルーツを語るものとして、また、新たに町を見つめ直すものとして、今の時代こそ求められている――筆者はそう感じています。