日本中を驚愕させた、ある事件
1936(昭和11)年5月18日、東京の荒川区尾久の待合「満佐喜」で、中野区新井の料理店店主・石田吉蔵が犠牲となる事件が発生。遺体は一部が切り取られていました。そして2日後の5月20日、石田と一緒に待合に投宿していた同居の仲居・阿部定が、殺人容疑で逮捕されました。
前代未聞の猟奇事件に、日本中が大騒ぎ。阿部定の名は全国に知れ渡りました。
尾久駅前は広大な車両センター
「次は~オクです~」
JR上野駅から、高崎線の高崎行き列車に乗りました。グリーン車付き15両編成の列車で、東京から群馬まで壮大な列車旅――といきたいところですが、上野の隣の1駅目「尾久」で、早々と下車。せっかく長大な路線の列車に乗ったのに、すぐ下りるのはツマらないなと、最初は思いました。だが。

ホームに降り立つと目の前は、駅の南側一面に広がる尾久車両センター。線路が並行して何本も延び、列車が何両も停まっています。貨物列車の姿もあり、ジワジワと旅情がこみ上げてくる風景です。
駅の出入口は北側に1か所だけで、改札を抜けて外に出ると、目の前を横切るのは明治通り。渡った先に尾久名義のそば屋があるほかは、特に目にとまるものもなく――おや?
駅舎の脇に地下道「タイムカプセル平成ロード」の入り口を発見。どうやら車両センターの下をくぐり抜け、駅の南側に出られるようです。「タイムカプセル」だけに、時間旅行気分を味わえるのかなと期待しつつ、階段を下りて地下道へ。
うわっ、長い! さすが広大な車両センターの下をくぐるだけあって、地下道はとても長く、そして暗くてちょっと怖いです。とりあえず進むと、側壁には地元で観察された写真や、地元長寿会の皆さんが書いた書道が展示されています。ただとにかく暗くて長いので、展示をゆっくり見る感じでもなく、とにかく足早に出口へ向かいます。
荒川区と北区の境目で
端から端まで歩き、階段を上ってようやく、車両センターの南側に出ました。まず高齢者施設の案内看板が立ち「上中里」の3文字が。JR京浜東北線の、田端駅の隣が上中里駅ですが、ここは尾久ではないのでしょうか? そして周辺は細い路地が入り組む住宅地で、年季の入った木造家屋も点在しています。
路地を適当に進むと、広場に出ました。公園? にしては遊具のひとつもなく、ただ緑地が広がるだけ。その真ん中に、唐突に立つ「中里貝塚」の案内塔。

周辺では縄文時代中後期のものと推定される、長さ1kmに渡る広大な貝塚が発見されました。その大きさは、ほかの巨大貝塚と比べても桁外れだそうで、しかも貝をゆでたり蒸すなどの加工作業が組織的に行われていた様子もうかがえるそうです。縄文時代に蒸しガキ、古代の皆さんはオイスターバー的に、カキグルメを楽しんでいたのでしょうか。
というわけで思いがけず歴史のロマンに触れましたが、適当に歩いていたら、上中里駅の入り口前に出てしまいました。周辺の住所も北区上中里だし、どうやらここはもう尾久エリアではないようです。とにかく尾久車両センター方面に戻ります。
車両センターをまたぐ、長大な踏切を渡り、センターの北側へ。その先も商店街「上中銀座商店街」が続きますが、歩き抜けると明治通りに出ました。やっと尾久に戻った――と思ったら、住所はまだ北区。そして明治通りを渡ると「カンカン」と踏切の音が聞こえ、都電の梶原駅に出てしまいました。
「都電モナカ」で有名な梶原ですが、ここもまた北区です。そしてここで地図をよく見ると、なんと最初に降り立ったJR尾久駅の住所も北区昭和町。では「荒川区尾久の三業地」は、いったいどこにあるのでしょうか。
それでも都電の線路に沿って延びる「都電通り」を東へ進むと、住所がようやく「荒川区西尾久8丁目」に変わりました。しかし道ばたの住所表示に併記される英文字を見ると“Oku”じゃなくて“Ogu”です。駅名は「おく」なのに、住所は「おぐ」、これはいったい?
都電の線路に沿い、かつての三業地へ
オクとオグの謎は結局解明されませんでしたが、とにかく尾久に入りました。道端に大きな「ゆ」の看板が現れ、銭湯があります。その先に都電の荒川車庫前駅と、駅前に荒川車庫があり、住所は引き続き西尾久8丁目。都電荒川線の拠点は、尾久なんですね。
さらに歩くと続いて荒川遊園地前駅に着き、駅から北へ延びる商店街「荒川遊園通り」を進むと、あらかわ遊園の観覧車が見えてきます。訪ねた2021年3月現在、遊園地はリニューアル中で、2022年春頃に再オープンとのこと。ちなみにあらかわ遊園は1922(大正11)年開園、当初は大浴場や竜宮殿を備える大人向けヘルスセンターで、三業地に近いため大いににぎわったそうです。

遊園地の観覧車を見上げつつ、小道を進むと隅田川に出ました。水上バス乗り場があり、緑色のアーチが美しい小台橋が架かっています。かつては川の両岸を「小台の渡し」が結んでいて、やはり三業地を訪れる客でにぎわったそうです。
小台橋のたもとから、商店街「小台橋みずき通り」を南へ抜けると都電の小台駅に着き、都電通りに戻ります。さらに東へ進むと、スーパーマーケットやコンビニが並ぶ中に、風格漂う大きな割烹(かっぽう)料理店が。大正時代の創業で、尾久が三業地だった頃から続いているそうです。尾久駅からここまで、かなり歩きましたが、ようやく「荒川区尾久の三業地」に近づいていることを実感します。
さらに進むと、都電宮ノ前駅が見えてきました。道の南側の住所は、西尾久2丁目。そして駅の手前の、碩運寺(せきうんじ)の入り口に「寺の湯跡」の説明版が。
まず1913(大正2)年に飛鳥山下と三の輪を結ぶ王子電車(都電荒川線の前身)が開通し、翌年に、ここ碩運寺に「寺の湯」が開業します。なんと当時の住職が、ラジウムを含む鉱泉を掘り当て、尾久は温泉地になったのです。
明治時代の尾久は、畑が広がる素朴な農村「尾久村」でした。でも温泉が湧いて、旅館が並び商店街もできて「尾久町」へと変貌します。そしてにぎわう町に男が集まり、お相手をする女性も集まり――尾久は芸者遊びを楽しむ花街になりました。芸者を派遣する「置屋」と、客が芸者と遊ぶ「待合」そして料理を出す「料亭」、3種類の業者が集まる「三業地」の誕生です。
宮ノ前駅の南に、道幅の狭い商店街「女子医大通り」が延びています。今は進んだ先に東京女子医大東医療センターがありますが――かつてはその近辺に尾久三業地があったそうです。
事件の記憶を通じて残る、街の歴史
左に総菜店、右に青果店を見つつ、通りを南へ進みます。いきなり目に飛び込む、男性演歌歌手のポスターをこれでもかと貼りまくった喫茶店。その先のスナックもやはり、入り口が同じ歌手のポスターで埋め尽くされています。
とはいってもほかはパン屋に豆腐店、トンカツ店にラーメン店、居酒屋などが並び、昔ながらの下町商店街の雰囲気です。女子医大の前には、患者さんを待つタクシーがズラリと並び、三業地の痕跡は感じられません。と思ったら――。

「阿部定(事件があった待合)? すぐそこだよ」
あるお店で、そう教えてくれました。
教えていただいた場所は、何の変哲もない駐車場でした。宅配便のトラックが停まり、若い運転手が降りてきて、駐車場内の自販機で缶コーヒーを買い一服。三業地の残像もなく、ましてそこで猟奇事件が起こったなんて、想像もつかない感じです。
日本中を騒がせた阿部定事件から、今年(2021年)で85年。1世紀近くの時を経て、街はすっかり変貌し、禍々(まがまが)しい事件の痕跡も消し去ってしまったようです。
ただあまりにもインパクトの強い事件だったせいか、今も「阿部定」の名は、私たちの記憶に鮮明に受け継がれています。
街は変わっても、人々の記憶や歴史は残る、ということでしょうか。
演歌を聴きつつシメの1杯
逮捕された阿部定は服役しましたが、懲役は意外に短い6年。しかも「皇紀2600年の恩赦」が加わり、1941(昭和16)年に出所しました。
出所後は偽名で結婚もしましたが、見に覚えのない暴露本出版を提訴して、再び表舞台に現れます。しばらくは手記の発表、舞台や映画への出演などで世間をにぎわせますが、1971年に千葉のホテルで働いたのを最後に、行方をくらましました。以後の消息は不明です。
一方で戦後になると、尾久の地下水が枯渇してしまい、三業地の店も1軒また1軒と閉じていきます。尾久三業地は衰退し、往時の繁栄を伝える景色もほとんどなくなりました。
宮ノ前駅から都電通りを東へ進むと、隣は熊野前駅。最近は日暮里・舎人ライナーも通り、乗換駅としてにぎわい、駅から南へ商店街「はっぴぃもーる熊野前」が延びています。長い商店街は、途中で「川の手もとまち商店街」と交差し、交差点の先は「おぐぎんざ商店街」となり――とにかく尾久は商店街が多いのです。
そんなわけで旧三業地界隈には居酒屋が何軒もありますが、せっかくなので女子医大に近い、歴史のありそうな1軒に入ってみました。何か阿部定関係の話でも聞けるかと思ったら――なんと店内は、まさかの男性演歌歌手ポスターだらけ!
かつての三業地そして事件の舞台も、今や女子医大と演歌の街。店内に流れる演歌を聴きながら、とりあえず1杯飲みました。全く聴いたことがない、曲名もわからない歌が流れていきます。
初めて好きになったのは~アナタだけ~♪

――逮捕された阿部定は、供述でさまざまな語録を残す中で、
「(石田は)あたしが初めて好きになった人」
と語ったそうです。
