ポリカルポフI-16は世界初の実用的な引き込み式主脚を導入した戦闘機です。しかし、先進的な設計も日進月歩の航空機開発の波に抗えず、いわゆる「やられメカ」として記憶されていくことになります。
先進的な機体で「やられメカ」ではない!
ポリカルポフI-16は、1933年12月30日に初飛行し翌年4月に運用が開始されたソ連の戦闘機です。その最大の特徴は、支柱を用いず胴体と完全に一体化した主翼である「片持ち式低翼単葉機」を持つこと、そして世界初の実用的な引き込み式主脚を導入したことです。
ポリカルポフI-16(画像:パブリックドメイン)。
同機といえば、スペイン内戦、ノモンハン事変、ソフィン戦争(冬戦争)、第二次世界大戦の独ソ戦序盤と、いつも敵航空機の前で劣勢を強いられる、いわゆる「やられメカ」的な印象も持たれています。とはいえ、当時の戦闘機はまだまだ複葉機が主役だった時代。単葉機は各国で研究がスタートしたばかりの段階でいち早く登場した存在でした。
I-16が制式採用され公式にお披露目されたのが1935年4月。そのころ日本では、のちに低翼単葉機として名を馳せる九七式戦闘機(キ-27)や九六式艦上戦闘機が開発をスタートさせたばかりでした。
ほかに実用化していた低翼単翼機にアメリカ陸軍航空隊の戦闘機P-26がありますが、こちらは張線を使用した半片持ち式低翼単葉機であるうえに、主脚は固定式。技術的にはI-16の方が先進的でした。
フォルムは全体的にはずんぐりとしていて、胴体は短く翼は大きく、その後に登場するスリムな単葉レシプロ戦闘機と比べると、かなり特徴的な姿をした戦闘機です。どうしてこのような戦闘機が誕生したのでしょうか。
「機体は短い方が有利である」という考えの元に設計
I-16の設計者であるニコライ・ニコラエビッチ・ポリカルポフは当時、戦闘機に高い高速性能を求めていました。
たとえば、小さな紙を遠くに飛ばそうと思った時、紙をそのまま飛ばしても早くは飛びませんが、小さく丸めて投げれば、素早く飛ばすことができます。この要領でポリカルポは「高速性能を追求するなら、機体は短い方が有利である」と考え、ずんぐりした機体を採用しました。
さらに当時主流だった、機体胴体から伸びた支柱で主翼を支える「張線式単翼」の主翼よりも、支柱を用いず胴体と一体化した翼を持つ「片持ち式単翼」の方がスピードも出ることがわかっていましたので、低翼の片持ち式単翼機を設計します。
しかし、当時の技術では、軽量で薄い片持ちの低翼はつくることができず、桁構造の分厚い主翼(厚翼)が完成しました。これにより主翼の重量が重くなり、運動性能が極端に落ちることがわかりましたが、ポリカルポフは運動性能よりもスピードを重視し、これを採用しました。
また、厚翼を採用したことで、降着装置を主翼内部に格納する仕組みを搭載することが可能になりました。主脚にワイヤーを組み込み、操縦席から引き上げるという単純な機構でしたが、これが最初に実用化された引き込み式主脚となりました。この主脚方式の採用により、飛行時の機体は流線形となり、さらなるスピードをもたらすことになりました。
こうして完成したポリカルポフI-16の最高速度は約470km/hで、当時運用されている軍用機のなかでは最速に近かったとされています。
とにかく相手と時代が悪すぎた!?
ポリカルポフI-16は、1936年以降、スペイン内戦やノモンハン事変、ソフィン戦争(冬戦争)などの戦場で使用されました。しかし、当時の航空機の進歩は日進月歩であり、同機もすぐに旧式化してしまっていました。
スペイン内戦では、コンドル軍団としてフランコ政権側で軍事介入をしたナチス・ドイツのBf109Bに圧倒的優位を取られることになります。同機は引込脚のほか、小さく薄い主翼、密閉式の風防、優秀な液冷エンジンを持ち、後の第二次大戦でもバージョンアップして主力戦闘機として戦い続ける先進的な機体でした。
ただノモンハン事変で対峙した旧日本陸軍の戦闘機である九七式戦闘機は当時の機体では保守的で古い固定脚としたため、設計思想的にはI-16の方が新しい機体となっていました。
しかし、航空戦が始まると、速度を活かすために許容した分厚い主翼が災いしました。同事変での航空戦は低速・低空で戦われるケースが多く、低速時の運動性を重視して設計された九七式戦に遅れを取ることになってしまいました。また、操縦もかなり難しかったようで、I-16に慣れないパイロットが数多く撃墜される要因にもなりました。
さらに、冬戦争では圧倒的に戦闘機の機数に劣るフィンランド空軍相手でしたが、国土のそこかしこの凍った湖や、雪原を滑走路代わりに飛び立つ練度の高いフィンランド人パイロットたちに苦戦。独ソ戦序盤にはナチス・ドイツに奇襲攻撃を受けたために、ろくに反撃できず地上撃破されるI-16が続出し、その後はYak-1やLaGG-3、MiG-3などの新型機に前線での役目を明け渡すことになります。
冬戦争中に墜落し雪原に刺さったポリカルポフI-16(画像:フィンランド国防省)。
同機は合計で9000機が生産され、一部機体は、爆撃機に取り付けられた状態で運ばれ、戦場近くで切り離して使う、親子機飛行機「ズヴェノー」の子機として使われたほか、スペインでは1950年代まで使用されました。太い胴体にずんぐりした姿は、各地でさまざまな愛称がつけられており、イシャク(ロシア語でロバ)、モスカ(スペイン語でハエ)、ラタ(スペイン語でネズミ)などと呼ばれました。ノモンハンで対峙した日本兵たちも「アブ」と呼んでいたそうです。