遠い島までカバーする東京
東京は、とても大きな自治体です。なにしろ、本州から1800km離れた日本の最東端・南鳥島や最南端の沖ノ鳥島まで、行政上は東京都なのです。
もちろんこれは極端な事例ですが、東京湾から定期航路のある伊豆諸島や小笠原諸島も東京都に含まれます。
ちなみに、伊豆諸島や小笠原諸島は衆議院選挙で東京都「第3区」に割り振られています。これは、品川区と大田区のそれぞれ一部と同じ選挙区です。そのため東京都第3区は日本で一番南北に長い選挙区となっています。
なお選挙の開票はそれぞれの村単位ですが、伊豆諸島の新島村は式根島と新島のふたつの島から成り立っています。いつも開票所は新島に設けられますが、投票箱を村営船で運搬するため、台風の影響で投票時間や投票日の繰り上げが何度も行われています。
有人島は九つだが「七島」
さて、この伊豆諸島の代表的な島を指して「伊豆七島」と呼ぶことは広く知られています。しかし、これはとても不思議です。
伊豆諸島は、北は伊豆大島から南は孀婦岩(そうふがん)まで、島の数は116。そのうち、人が現在暮らしているのは、
1.大島
2.利島
3.新島
4.式根島
5.神津島
6.三宅島
7.御蔵島
8.八丈島
9.青ヶ島
の合計九つ。それなのに伊豆「七島」。いったい、どういうことでしょうか?
式根島と青ヶ島の存在
九つあるのに七島となっている有力な説は、
1.大島
2.利島
3.新島
4.式根島
5.神津島
6.三宅島
7.御蔵島
8.八丈島
9.青ヶ島
のうち、式根島と青ヶ島が七島に入らないというものです。
前述の通り、式根島は新島とふたつセットでひとつの自治体を形成しています。
もともと両島の関係は深く、江戸時代の1703(元禄16)年に起こった元禄大地震の津波で分離されるまでは、ひとつの島だったという説も流布されているほどです。
もっともこれはあくまで伝説で、明治時代になってからそれまで漁場として利用していた新島の人々が定住するようになったというのが、本当の歴史です。あくまで新島に付属する島として、式根島はひとつに数えられていないというわけです。
では、青ヶ島はどうでしょう。この島は、東京都にもかかわらず「到達困難」な島として知られる秘境です。
火山の頂上部が海面から隆起しており、周囲を崖で囲まれた独特の地形。
到達手段は、八丈島からヘリコプターか連絡船しかありません。とりわけ連絡船は悪天候で欠航することが多く、ヘリコプターの定員は少ないこともあり、島を訪問するのも困難と言われています。その上、海が荒れて帰ることができないことすらあります。
そんな青ヶ島は「鳥も通わぬ」といわれた八丈島のさらに南にある属地と見られてきたため、七島には数えないという説が有力です。
あいまいな七島の根拠
しかし、この説明では納得できないことがあります。なぜなら、伊豆諸島にはかつてもっと多くの有人島があったからです。
八丈島の近くにある八丈小島は1969(昭和44)年に集団離村が行われるまで有人島でした。
利島と新島の間にある鵜渡根島(うどねしま)も、明治期に定住する人がいたことが記録されています。
天然記念物であるアホウドリの生息地として知られる鳥島は、明治時代にはアホウドリの羽毛採取を目的に、多くの人が移住していました。
しかし移住者たちは、1902(明治35)年に起こった大噴火で全滅。助かったのは、噴火数日前の定期船に乗ったひとりだけという大惨事でした。あまりにアホウドリを乱獲したたたりだともいわれています。
これらの島を加えると、また七島の根拠が怪しくなってきます。
新たに「東京諸島」の名も現る
実のところ、「伊豆七島」の呼称は江戸時代までの文献には登場しません。明治時代に入って、初めて公文書に登場するのです。
しかしここでも、明確に七島がどこなのかは記されていません。どうも、伊豆諸島を意味する言葉として七島が使われたようです。
ただ実際におかしいと考える人は多かったようで、国土地理院では1954年以降の地図に「伊豆諸島」と表記するようになりました。
ちなみに伊豆諸島と呼ばれているものの、実際は東京都であることから、現在では「東京諸島」への改名を求める声もあります。
観光振興団体は、東京諸島観光連携推進協議会(港区海岸)を名乗っているほどです。なお実際に改名に向けて、具体的な動きが行われたこともあります。
2001(平成13)年には、東京都島嶼(しょ)町村会(同)が東京諸島への改名を検討するためのアンケートを実施しました。しかし56%が反対する結果となり、改名はいったん断念されました。
伊豆七島、伊豆諸島、東京諸島――あなたにとって、どの名前が一番しっくりきますか?