テーマは厄神を追い払う行事「神送り」
令和の疫病「新型コロナウイルス感染症」は、私たちの生活や社会に多くの変化をもたらしています。医療の発達した現代社会ですら大きな脅威なのですから、昔はいかばかりか図り知れません。
日本ではコレラやペスト、天然痘、インフルエンザなど、さまざまな疫病が人間を脅かしてきました。これらの疫病は悪い神様がはやらせるものとされ、各地で悪神を送り出す「神送り」の儀式が行われており、現在でもその歴史が残されています。
特に、天然痘(疱瘡)をはやらせる神様「疱瘡(ほうそう)神」は各地に存在し、地域ごとにさまざまな「神送り」(厄神を追い払う行事)や天然痘から身を守るまじないが行われました。今回は、その神送りを題材にした落語「風邪の神送り」の紹介です。
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悪い風邪がはやり、町内軒並み風邪にかかるようになってしまった。
「こう陰気ではいけない。ひとつ陽気に風邪の神送りをして疫病神を追い払おうじゃないか」
「どうやるんだい」
「1軒からひとりは出てきて大勢集まったところで『おーくれ送れ、風邪の神を送れ、どんどん送れ』と言いながら隣町まで送り出してしまうんだ」
「それはよかろう」
神送りをすると聞きつけて、夜具にまるまった風邪っぴきの者まで出てきて参加することに。
川の中へ風邪の神を送り出したが……
町内の衆はにぎやかに「おーくれ送れ、風邪の神を送れ、どんどん送れ」とはやしたてていると、どこかから「おなごり惜しい」と声がする。
「誰でい、そんなことを言ってるのは。見当つけて引きずりだしちまえ」
「おーくれ送れ、風邪の神を送れ、どんどん送れ」
「お名残惜しい」
「この野郎だな、やい、かぶり物をとって顔を見せろ」
と町内の衆が寄ってたかってかぶり物を取ってみると、近所の薬屋の息子であった。風邪の神が居なくなると、患者がいなくなってしまい商売上がったりというわけだ。すったもんだの末にようやく風邪の神を川の中へ送り出した。
その日の夜、川で夜網を打っている漁師の網に大物が引っかかった。
「なんだ、てめえは」
「私は風邪の神だ」
「なるほど、それで夜網(弱み)につけ込んだのか」
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サゲ(落語のオチ)は、「弱みにつけ込む風邪の神」の慣用句から。原話は1776(安永5)年、上方(関西地方)咄(はなし)集『夕涼新話集』の「風の神」です。
落語では風邪の神様を送ることを渋るのが薬屋となっていますが、原話ははやり病もなく暇で借金のあるヤブ医者となっています。
風邪がはやり患者が増えることで借金を返すことができるとふんだヤブ医者が、町内で風邪の神送りが行われていることを知り、「はて、いらざる殺生を」とぼやくというオチです。
都内に残る疫病の歴史
幕末に一番恐れられていた疫病は、天然痘です。
現在では種痘(ワクチン)が開発され根絶した疫病ですが、ワクチンの接種が義務化されるまではそのあまりの感染力に誰もが罹患(りかん)する疫病と恐れられていました。このため、各地に天然痘の神様を祭る「疱瘡神」が残されています。
●お玉ヶ池種痘所跡(千代田区岩本町)
1858(安政5)年、江戸の蘭方医・大槻俊斎(しゅんさい)、伊東玄朴(げんぼく)ら82人の出資により開設された天然痘のワクチン接種所。
大阪はすでに1849(嘉永2)年に緒方洪庵が「除痘館」を開設しており、江戸の種痘開始は遅いものでした。これは、江戸の医療を独占していた漢方医の既得権益を守る「蘭方医学禁止令」が出されていたからです。落語「風邪の神送り」の中に出てくる、薬屋や医者をほうふつとさせるものがあります。
お玉ヶ池種痘所は蘭方医の育成も行い、その後東京大学医学部へと発展しました。現在は、「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所」碑(東大医学部発祥の地)として残されています。
お玉ヶ池は、9回目の連載で取り上げた「紺屋(こうや)高尾」で紺屋職人の久蔵を吉原に連れて行った医者の蘭石先生や、「佃祭」で命拾いをする小間物屋の次郎兵衛が住んでいた場所としても登場します。
武将・太田道灌にゆかりのある神社
●太田姫稲荷神社(千代田区神田駿河台)
太田持資(後の道灌)が、天然痘に罹患した姫の平癒を祈願した京都の山城国「一口稲荷」を移し奉った神社。
祭神の「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」は五穀の神であり「穢もあらう」とされています。また菅原道真公、徳川家康公が合祀(ごうし)されている文武の神でもあり、病気平癒、学力増進などの祈願に多くのひとが訪れています。
なお太田道灌は、山吹伝説を題材にした落語「道灌」にも登場します。落語の中でご隠居さんが説明する「山吹の里伝説」については、真偽不明です。
玉垣に市川團十郎や尾上菊五郎の名も
●半田稲荷神社(葛飾区東金町)
江戸中期以降、はしか(麻疹)と安産の神様として知られた葛飾区東金町にある稲荷神社。1764(明和元)年から1781(安永10)年までの間に、真っ赤な装束の物乞い僧が「葛西金町半田の稲荷、天然痘も軽い麻疹も軽い運授、安産御守護の神よ」と節面白く全国を謡い踊り歩いたと言われています。
ご由緒には
「近くは明治十三年新富座で故市川団十郎一座、大正年間にて歌舞伎座で尾上菊五郎一座が上演され、また昭和九年十月清水和歌氏に依って日本青年館で上演、昭和十九年六月市川九女八に依って上演された様に歌舞伎、舞踊に演ぜられるところであります」
とあり、境内御神水の玉垣には市川團十郎や尾上菊五郎などの歌舞伎役者の名前が彫られています。
上方の落語「八五郎坊主」は、寺の名前を忘れた八五郎が「疱瘡も軽い麻疹も軽い」をもじって思い出そうとするシーンがあり、半田稲荷のご利益が上方まで伝わっていたことがわかります。
その昔、疫病は「疫病の神様がやってくる」ことから流行するとされ、各地で疫病の神様を送る「神送り」が行われたといいます。
神送りは「疫神送」ともいわれ、旗本・根岸鎭衞(しずもり)が書いた「耳袋」の「京都風の神送りの事」では、お金を与えた物乞いに風邪の神の扮装(ふんそう)をさせて川へ送る様子が描かれています。
笑い話からわかる当時の社会構造
このエピソードの中で、物乞いが扮装した風邪の神は不届き者によって川に投げ込まれ、夜になって物乞いが「風邪の神、帰ってまいりました!」と1軒1軒まわったという笑い話として紹介しています。
当時の社会構造が垣間見え、笑い話とするには「冗談言っちゃいけねえ」とサゲてしまいたい内容です。
突き落として笑ったやつらをぎゃふんと言わせる噺として落語で聴いてみたいものですが、現代にかけるとなると設定を変えないことには刺激が強いのかもしれません。
また、疫病の神様を寄せ付けない、または怒らせないためにさまざまなまじないやお守りが作られました。
人の業をあぶり出す疫病を神とする文化
そのひとつとして有名なものが飛騨高山の「さるぼぼ」です。
さるぼぼの「さる」は「去る」とされ、疫病の神様を寄せ付けない色である赤で作られています。これを身につけたり玄関に下げたりするなどして、「疫病が去る」「身代わり」にしたと考えられています。
地方によっては疱瘡神を畏れ多い神としており、子どもが天然痘やはしかにかかると神様がやってきたとされ、「おめでとうございます」と怒らせないようにお出迎えし、その後で送り出したといわれています。
医療が発達した現代でも、ウイルスは人類にとって大きな脅威です。
令和の疫病に対抗するため、多くの医療従事者やライフラインを担う人々がいわれのない攻撃を受け、困窮した人々をしり目に、政治と国会は進展を見せずに踊りました。行き過ぎた正義は「自粛警察」を生み、さまざまな情報やデマに市井に人々は翻弄(ほんろう)されました。
ウイルスは病気を引き起こすと同時に、社会が持つ闇や人間の持つ本性をあぶり出しています。昔の人々は「神送り」を行うことで、差別や欲など人が持つ業を送り出していたのかもしれません。