テレビ普及以前は人気絶頂
コロナ禍にも関わらず球春たけなわです。選抜高校野球大会は東海大相模(神奈川県相模原市)が優勝し、プロ野球もペナントシリーズが開幕。海の向こうでは米大リーグ機構(MLB)もスタートし、日本人選手の活躍が連日報道されています。
また、
・早稲田大学(新宿区戸塚町)
・慶応義塾大学(港区三田)
・明治大学(千代田区神田駿河台)
・法政大学(同区富士見)
・立教大学(豊島区西池袋)
・東京大学(文京区本郷)
の六大学をメンバーとした東京六大学野球の春季リーグも、4月10日(土)から神宮球場で始まりました。緊急事態宣言の解除に伴い、収容人数の上限は1万人となっています。
戦前のプロ野球草創期において、東京六大学野球の人気は群を抜いており、戦後、テレビが普及してプロ野球の人気が上昇するまでは高校野球と人気を二分してきました。
そんな東京六大学野球の発端は、早稲田が慶応に挑戦状を書き、慶応の三田綱町球場で実施された早慶戦から始まります。1903(明治36)年のことです。しかし、1906年には双方の応援団の過剰な行動で早慶戦は中止されました。
その後、明治の提唱で1914(大正3)に「早慶明」の三大学野球リーグが結成され、1916年に法政が、1921年に立教が加盟。そして1925年に東大が加盟して、東京六大学野球リーグが成立します。
これを機に中止されていた早慶戦も再開し、運営団体としての東京六大学野球連盟も発足しました。
急速に進展した東京の都市化・郊外化
大正時代の東京は資本主義経済の浸透に伴い、東京都心部はビルの建設や企業の集積によって、そこで働く事務職などの俸給生活者(サラリーマン)が大量に出現。女性も職業婦人として働くようになります。
そして彼らは通勤に便利で、都心部よりも安価な、新宿、渋谷、池袋などのターミナル駅から郊外に向けて敷設された鉄道の沿線に住居を求めるようになります。
さらに1923年の関東大震災は、壊滅した都心部から郊外に移転する人を数多く生み出しました。
東京は1932年、それまでの15区に郊外の郡、町村を編入し35区に。早慶戦から始まり、その後の東京六大学野球リーグの結成に至るまでは、このように東京の都市化や郊外化が急速に進展した時期に当たります。
94連敗しても存在感のある東大
東大は、東京六大学野球で一度も優勝したことがありません。戦後の東京六大学野球の再開後には2位になったこともありましたが、近年は長らく苦戦が続いています。
2020年の秋季リーグ終了後、連敗は56となっています(2017年秋から)。記憶に新しいところでは、2010年秋から2015年春までかけての94連敗が話題を呼びました。
しかし日本の野球の歴史を考えると、東大の存在価値はとても深いものとなっています。
第一番中学(後の開成学校。東京大学の前身)の教員だったアメリカ人のホーレス・ウィルソンが日本で初めて学生たちに野球を教えたというのが定説になっており、同校があった学士会館(千代田区神田錦町)の前には現在、「日本野球発祥の地」の碑があるのです。
文京区にある東大球場
東京帝国大学(東大の1897年から1947年までの名称)の唯一の交流戦は、京都帝国大学との定期戦でした。
1920年に第一高等学校(現・東京大学教養学部)から左腕投手の内村祐之が入学し、チーム力が向上。早稲田などと好試合を演じ、五大学野球連盟と接触。1925年に加盟が認められ、前述の東京六大学野球連盟が発足しました。
当時は他校は予科を含め5~6年在籍できましたが、東京帝国大学は本科の3年のみだったこともあり、戦力不足は否めませんでしたが、大エースの東武雄と清水健太郎のバッテリーを擁し、チーム力も向上していたため、加盟が認められたのです。
目立った成績を残していない東大野球部ですが、東京六大学野球のなかでは唯一、東京23区内に本拠地・東大球場(文京区弥生)を構えています。東大球場は同大農学部内にあり、1937(昭和12)年に建設されました。
終戦後に明治神宮野球場(新宿区霞ヶ丘町)が占領軍に設置されていたとき、東京六大学野球の公式戦が行われたこともあり、2010年には文化庁の有形文化財として登録されました。スタンドのアーチ型の屋根やベンチは木製で、レトロ感も漂っています。
正式な表記はありませんが、球場の両翼は85m、中堅105mと言われています。位置はちょうど根津神社(文京区根津)の南で、外野フェンスの外は樹木で覆われており、神社に向かう坂道からも垣間見えます。
他大学のグラウンドはどこにあるのか
さて、東京六大学各校の本拠地はもともと、現在の東京23区内にありました。
慶応は1924年に田園調布へ、1926年に荏原郡矢口村(現・大田区千鳥2)に野球場を新設。1940年に横浜市神奈川区下田町(現・横浜市港北区下田町、日吉本町)に移ります。
早稲田は1902年、大学校地に隣接していた農地を借りて戸塚球場を開設。1926年の明治神宮野球場の完成まで東京六大学のリーグ戦で使用していました。その後、安部球場に改称しましたが1987年に閉鎖。その後は東伏見野球場(現・安部磯雄記念野球場、西東京市東伏見)に移転しています。
明治は1910年に豊多摩郡中野町(現・中野区東中野)に野球場を開設、その後、荏原郡駒沢町(現・世田谷区野沢)、豊多摩郡和田堀(現・杉並区永福)、戦後は調布から府中と移転し、内海・島岡ボールパーク(府中市若松町)と至っています。
法政は諸説あり、同大野球部のウェブサイトによれば、最初は現在のJR大久保駅付近にあったとのことですが、一ツ橋に仮球場を開設していたという新聞記事(1936年9月9日『東京朝日新聞』)も。その後、新井薬師(中野区)に移転したという記述もあります。1936年に予科の校舎が橘樹郡住吉村(現・川崎市)完成したため、市ヶ谷から移転。同時に予科図書館、総合グラウンドなどが設置され、現在まで法政大学野球部はここを本拠地にしています。
立教が端を発したのは築地で、当初はそこにあった立教中学のグラウンドを使用していました。その後、関東大震災によって被災、1918年に校地を現在の池袋に移転。現在の4号館辺りにグラウンドが設置され、1924年にはスタンドも設置。翌1925年に東長崎に移転し、その後1966年に東長崎から埼玉県新座市に移りました。
背景にあった東京の都市化と郊外化
こうして見ていくと、早稲田以外は校地が手狭で、地価の上昇もあり、東京郊外に野球場を求めていったことがわかります。
その背景にあるのは先述したように、東京の都市化、それに伴う郊外化です。同時に鉄道などの交通インフラの整備も密接に関連したこともわかります。こうして校地の広い東大だけが、東京23区内に野球場を維持することになったのです。
繰り返しになりますが、現在ではプロ野球の登場により、大学野球は主役の座を追われています。しかし日本の野球の歴史上、大学野球の存在を抜いて語ることはできません。
というわけで、現在は消えてしまった各大学の野球場跡を訪ねてみるのも一興かもしれません。