日本の航空自衛隊も多用した超音速戦闘機F-104「スターファイター」は、ドイツでは数多くの墜落事故を起こした機体でした。日本とは墜落数が倍近くも差があるそうですが、その理由は運用の違いに原因があるようです。
朝鮮戦争で戦ったパイロットの声を具現化して誕生
今からちょうど70年前の1954年3月4日、ロッキード社製の超音速戦闘機F-104「スターファイター」の原型初号機、XF-104が初飛行しました。斬新な機体形状から当時は「最後の有人戦闘機」とも呼ばれ、日本においても航空自衛隊の主力戦闘機として全国の空を飛び回った馴染みある機体です。
ただ、同機はアメリカ空軍ではごく短期間で退役しており、西ドイツ(当時)では数多くの墜落事故を起こし「未亡人製造機」というありがたくないあだ名までつけられたとか。国によって扱いに差が出た理由は、いったいどこにあったのでしょうか。
航空自衛隊のF-104J「スターファイター」戦闘機(画像:アメリカ空軍)。
1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では、韓国軍とそれを支援するアメリカを始めとしたいわゆる西側と、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)軍とそれを支援する中国軍が激突し、空の戦いでは史上初のジェット戦闘機同士による空中戦も行われました。その戦いにおいて、最初にアメリカ軍が投入した戦闘機は、ロッキードF-80「シューティングスター」やグラマンF9F「パンサー」など、直線翼のジェット戦闘機でした。
ただ、そこにソ連製のMiG-15戦闘機が登場するとアメリカ軍の戦闘機は苦戦を強いられるようになります。当時の最新技術であった後退翼を備えたMiG-15は速度と上昇力において直線翼機よりも圧倒的に優れていたからです。そのMiG-15への対抗策としてアメリカ側も後退翼を装備した新鋭戦闘機、ノースアメリカンF-86「セイバー」を投入しました。
こうした歴史に残る航空戦が展開されていた朝鮮半島を訪れたのが、著名な航空機設計者として頭角を現しつつあったロッキード社のエンジニア、ケリー・ジョンソンでした。ジョンソンは朝鮮半島上空で空中戦を行っているジェット戦闘機パイロットの声を直接聴取して将来の戦闘機設計に活かそうと考えたのです。
現地でパイロットたちに聞いて回ると、彼らの要望はより速く、より高い高度を飛行できる性能とシンプルな操縦性などでした。そこで、現場の意見をジョンソンが具現化した革新的な戦闘機がF-104「スターファイターで」した。
2つの世界記録を達成した優秀機
F-104は、ジョンソンが意図したとおり速度性能、上昇力ともに優れた性能を発揮します。その高性能ぶりを体現したのが、前量産型に相当するYF-104Aが1958年5月7日に樹立した高度2万7811mへの到達と、同月16日に達成した速度2259.5km/hという2つの世界記録(当時)でしょう。
なお、この記録によってF-104は実用機として初めてマッハ2の速度を維持することが可能な航空機となりました。
ただ、飛行性能こそ優れていたものの、航続距離が短いことや搭載兵器の数量が限られていたことが理由となり、アメリカ空軍における運用は限定的かつ短期間で終了してしまいます。
しかし、要求仕様が異なるカナダやヨーロッパ諸国、そして日本では手ごろな高性能戦闘機として導入され、最終的には15か国で運用されました。また、アメリカ以外の6か国でライセンス生産が行われた結果、総生産数は各型合計で2578機を記録しています。
日本は、航空自衛隊の主力戦闘機として導入を決定。爆撃コンピューターを外した要撃専用型としてF-104Jが開発されると、その複座型F-104DJとともに合計210機を調達しました。
1986年8月16日、旧モフェットフィールド海軍航空基地で撮影したドイツ海軍のF-104G戦闘機(細谷泰正撮影)。
一方、ドイツ、ベルギー、オランダ、ノルウェーなどのNATO(北大西洋条約機構)諸国が採用したF-104Gや、カナダ仕様のCF-104は、核攻撃を主任務とした戦闘攻撃機型でした。米ソが激しくにらみ合っていた東西冷戦下のヨーロッパでは、敵レーダーと対空砲火を避けるために低空を高速で飛行し戦術核による攻撃を行うことがF-104Gに課せられた任務であり、アメリカ軍が管理する核兵器が前出のF-104Gに搭載されました。
なお、NATO諸国が運用していたF-104Gは、爆撃コンピューターとともに地上の航法無線局などに依存することなく正確な航法を全天候下で行えるよう、慣性航法装置が搭載されていました。
東西冷戦の最中、ヨーロッパ域内で最も多くのF-104を運用していたのが西ドイツです。同国は海軍と空軍の双方にF-104が配備され、さらに派生型の偵察機型もあったため、それら合計で916機を装備していました。
世界的に珍しい海軍仕様のF-104戦闘機
西ドイツ海軍ではF-104Gを対艦攻撃メインで使用していましたが、一方で同国空軍は核爆弾を搭載した戦闘爆撃機として用いていました。当時の西ドイツ空軍では1メガトンのB43核爆弾1個を胴体下に搭載したF-104Gが6機、24時間いつでも発進できる態勢を維持していました。
ただ、ドイツ軍における運用は、敵の対空砲火をかわすために超低空を超高速で飛び抜けるというやり方がメインで、それゆえに事故が多発しています。前述したように西ドイツはF-104を916機導入していますが、そのうち実に270機を事故で失っており、パイロットについても110名が亡くなっています。
季節によっては視程の悪いヨーロッパの空を高速で飛行する任務に、F-104Gは不向きの機体でしたが、冷戦に伴う東西陣営間の緊張が無謀ともいえるミッションを西ドイツ人パイロットらに強いていたといえるでしょう。
ただ、これはF-104を設計したジョンソンが想定していた作戦ではありませんでした。むしろ、ジョンソンが想定していた運用イメージに近い使い方をしていたといえるのが、日本の航空自衛隊でした。
1986年8月16日、旧モフェットフィールド海軍航空基地で撮影したドイツ海軍のF-104G戦闘機(細谷泰正撮影)。
ジョンソンが朝鮮戦争の最前線で戦闘機パイロットから聞いた「より速く、より高い高度を飛行できる性能」というのは、航空自衛隊が追求していたスクランブル発進による、領空侵犯機への要撃という運用法がピッタリだったのです。その裏付けとして、航空自衛隊における同機の損耗率は西ドイツ軍のおよそ半分で済んでいます。
ちなみに、筆者(細谷泰正:航空評論家/元AOPA JAPAN理事)は1986年夏、退役を前にアメリカツアーを行っていた当時の西ドイツ海軍のF-104Gをカリフォルニアの航空ショーで見ています。
そのときは、すでに本国では後継機「トーネード」の配備が進んでおり、いかにも「老兵」といった感じでしたが、見た目とは裏腹にダイナミックな飛行を披露していました。
そのとき撮った、世界的にも珍しい海軍機として使われたF-104Gの写真を見返すと、東西冷戦が終わり、東西ドイツが統一を果たし、旧ソ連が崩壊したという時代の流れを感じずにはいられません。