硫黄島、15年間で57haも大きく
もうそろそろだろうと思っていましたが、最新版の『シマダス』(日本の島のエンサイクロペディア)を開いて、ついにこの時がやってきたのかと感無量でした。硫黄島が、小笠原のメインアイランドである父島よりも、大きくなっていたのです。
前回2004(平成16)年版の『シマダス』と今回2019年版で、小笠原諸島の三大島である父島・母島・硫黄島を比べてみましょう。
2004年版では、
・父島:23.80平方キロメートル
・母島:20.21平方キロメートル
・硫黄島:23.16平方キロメートル
で、父島が硫黄島より64ha広くなっていました。
ところが、2019年版では
・父島:23.45平方キロメートル
・母島:19.88平方キロメートル
・硫黄島:23.73平方キロメートル
となり、硫黄島が父島を28ha上回り、小笠原最大の島にのし上がっていたのです。
父島や母島の面積がわずかに縮小しているのは、波が荒い絶海の中に立ち続ける島の宿命です。波に削られて痩(や)せ、風雨にさらされて崩れ、土地の隆起や人為的な埋め立てなど特別な理由がない限り、徐々に小さくなっていくからです。
日頃そんな変化をあまり感じないのは、自然災害で壊されても壊されても諦めずに防波堤や護岸を造り、大自然の節理に人間が必死になって抵抗しているからです。
過去100年間「最大島」は何度も入れ替わり
東京府が1929(昭和4)年に刊行した『小笠原島總覽(そうらん)』によれば、父島と母島と硫黄島の概要(面積・周囲・最高峰の標高)は以下のようになっています。
・父島
面積:2273町歩(22.54平方キロメートル)
周囲:13里8町(51.9km)
中央山の標高:1170尺(354.5m)
・母島
面積:2411町歩3段(23.91平方キロメートル)
周囲:10里(39.3km)
乳房山の標高:1690尺(512.1m)
そして、
・硫黄島
面積:1466町歩(14.54平方キロメートル)
周囲:5里29町(22.8km)
摺鉢山の標高:420尺(127.3m)
に過ぎませんでした。
なお、1町歩は9917平方メートル、1里は3927m、1町は109m、1尺は30.3cmとして換算してあります。
改めて『小笠原島總覽』を読み直して驚いたのは、約100年前は母島が小笠原諸島最大の島だったこと。
つまり、この100年間で小笠原諸島最大の島は母島 → 父島 → 硫黄島と目まぐるしく変化していたのです。人間の手による埋め立てや大地震による突然の隆起で土地が広がったとか、逆に地震によって土地が一瞬にして沈降したという記録はありません。
背が伸び続ける「摺鉢山」の特異さ
決定的な要因は、硫黄島周辺での活発な火山活動による、異常な隆起です。硫黄島は世界でも屈指の地殻変動が激しい場所で、異常な隆起や小規模な噴火や水蒸気爆発を繰り返しています。
硫黄島の健闘ぶりを確認するため、摺鉢山(すりばちやま)の標高の変化も見てみましょう。
摺鉢山の標高を、『小笠原島總覽』『2004年版シマダス』『2019年版シマダス』の順に並べると、
127m → 161m → 170m
と、背が高くなる一方です。
『小笠原島總覽』発刊時からたった75年間で43mも隆起しているのは、地質学的には異常値です。しかも、最近の15年間で9mも背が伸びている。これは、とんでもなく異常な数値です。中でも、2011年から2012年にかけては、年間2mを超える隆起を観測したそうです。
一戸建てに住んでいる人が、わずか1年間で住宅地の中にある自分の敷地だけ2mも高くなっている様子を想像すれば、この数値の異常さが理解できるでしょう。
山の標高の変化以上に、もっと分かりやすい目に見える変遷(へんせん)があります。1929(昭和4)年当時、硫黄島のはるか沖合にあった「釜岩」が置かれた立ち位置です。
海上の離れ岩を飲み込んだ硫黄島
島だった釜岩(『小笠原島總覽』の地図)は、隆起によって砂州(さす。流水により形成される砂の堆積構造)が延びて(『島の旅』の地図)硫黄島とつながり、その砂州も一緒にどんどん隆起して半島となり、今では硫黄島に飲み込まれたようにその一部(最新版『シマダス』の地図)と化しています。
また、硫黄島の一部となった釜岩とまだ島のまま頑張っている監獄岩の写真を、よく見てください。右側の海岸線に大きな岩のようなものがいくつも写っています。
これらは、米軍が築港のため捨て石代わりに海に沈めたコンクリート船なのです。
沈没させた当時は海中にあって見えなかったものが徐々に姿を現し、不思議な光景を生じています。これも、硫黄島の激しい隆起が生んだたぐいまれなる異景といえるでしょう。