第2次大戦前のイタリア空軍は、新型爆撃機の開発に遅れを取っていました。そこでエアレース参加を目標に開発され、記録機や旅客機として運用された3発機を爆撃機に転用。大戦中には爆弾を魚雷に変え、地中海でも戦果を挙げました。
エアレースには間に合わず でも高性能機として記録を多数樹立
第2次世界大戦でのイタリア製爆撃機を代表するのが3発エンジンのSM.79型です。とはいえ、この機体、最初から軍用機として設計開発されたわけではありません。原型は当初、ロンドン~メルボルン間のエアレース参加を目標に製作された輸送機兼旅客機(乗客8名)です。
いわば記録機として設計されたSM.79の原型は、1934(昭和9)年にサヴォイア・マルケッティ社のアレッサドロ・マルケッティ技師の設計チームを中心に開発されました。
スペイン市民戦争時にペアで飛行する第29高速爆撃航空群所属のSM.79型。当時は高速性能を活かした中型爆撃機として活動した(吉川和篤所蔵)。
機体は全金属製でなく、一部木製の混合構造だったものの、当時としては最新デザインだった低翼単葉の形状で、主脚も引き込み式でした。なお、双発機でなく3発機で計画された理由は、イタリアで1000馬力級の大出力エンジンの開発が遅れていたことや、既存エンジンの信頼性が低かったことなどが挙げられます。
結局、当初目標としていたエアレースへの参加は間に合わなかったものの、試作機はローマ~ミラノ間(距離約470km)を1時間10分で飛行(平均速度410km/h)。その後も高速と長距離性能を活かし数々の記録を出します。1935(昭和10)年8月にはローマ~マッサワ(東アフリカ)間(距離約2340km)を12時間で飛び、1937年にはエンジンを1000馬力級の出力向上型に換装したSM.79CS型が、総距離2000kmの周回飛行で平均時速428km/h、最高速度で444km/hの世界記録を樹立。また5tの貨物を積載して1000kmの周回飛行を行い、平均速度402km/hという当時としては非常に優秀な記録を打ち立てました。
旅客機から爆撃機への転用
1938(昭和13)年には、SM.79CS型をさらなる長距離用に改造したSM.79T型3機を使って、ローマ~ダカール~リオデジャネイロ間の9650kmを24時間22分(平均速度393km/h)で飛行することに成功しています。ちなみに、この時3号機の機長として、操縦棹を握っていたのは、当時イタリアの最高指導者であったムッソリーニ統帥の長男ブルーノでした。
1938年、ローマ~ダカール~リオデジャネイロ間の長距離飛行に出発するSM.79T型「I-MONI」号。国際レース用に赤く塗られた同機は遠征後ブラジルに残され、1944年まで使用されている(吉川和篤所蔵)。
このような高性能記録を次々と打ち立てるSM.79型をイタリア軍が放っておくわけがありません。第2次世界大戦前、イタリア空軍は近代化が遅れており、長距離高速性能に優れたSM.79型を中型爆撃機に転用しようと計画したのは自然な流れでした。
こうして1935(昭和10)年頃より、サヴォイア・マルケッティ社に実用プランと、それに伴う機体の改造を命じたのです。
そのような命令により、流麗なシルエットの機体中央には縦置きの爆弾倉が設けられ、通常1000kg、最大で1250kgの爆弾を収納することが可能になりました。加えて、胴体下部には爆撃手が乗り込むゴンドラが増設されて外観も無骨な印象に変わります。
ほかにも軍用機として機銃が追加されると共に、エンジンも780馬力の新型に換装。こうして誕生した新たな爆撃機には、「スパルヴィエロ」の名称が与えられました。ちなみに「スパルヴィエロ」とは、イタリア語でハイタカ(鷂)を意味します。
「スパルヴィエロ」は1936(昭和11)年10月から生産が始まり、1943(昭和18)年6月までに総計1217機が生産されました。なお、この数はイタリア爆撃機では最大の生産数でもあります。
遅れた実戦配備と地中海での奮闘
SM.79爆撃機は、1936(昭和11)年に始まったスペイン市民戦争(スペイン内戦)に派遣され、第2次世界大戦ではバルカン半島や地中海、北アフリカなどの戦いで用いられました。すでに機体は旧式化していたものの、その頑丈で打たれ強い機体構造のおかげで、多くの戦果を挙げました。
しかしイギリスやアメリカなど敵側の戦闘機の進化により、高速爆撃機としての性能が頭打ちになったため、1940(昭和15)年には頑丈な機体や操縦性の良さを活かして爆弾から魚雷に積み換えた雷撃機としての転用が計画されます。ところが、非力なエンジンでは、450mm魚雷を胴体下面に左右2本搭載すると、操縦に支障をきたす恐れがありました。そこで通常は1本だけの搭載となり、またエンジントルクの関係から胴体左側下に積まれました。
魚雷を1本搭載して雷撃機として使用されるSM.79型。1943年3月、第89爆撃航空群第228飛行隊所属のコッラディーニ少尉機(吉川和篤作画)。
SM.79雷撃型は、やがて地中海における連合軍船団の大きな脅威となります。代表的な例としては、イギリス軍がマルタ島への補給で送り込んだ「ハープン」輸送船団(1941年6月)や「ペデスタル」輸送船団(同年8月)などの攻撃で、駆逐艦や輸送船など数多くの敵艦を撃沈または大破させています。
こうした作戦では、イギリス重巡洋艦「ケント」(9750トン)や英軽巡洋艦「グラスゴー」(9100トン)を大破したブスカーリア大尉を筆頭に、多くの雷撃エースも排出します。その後、SM.79雷撃型は1942(昭和17)年夏にも多くの雷撃戦果を挙げ、制空権が失われるまでの一時的な期間でしたが、北アフリカでの連合軍(おもにイギリス)と枢軸軍(イタリア・ドイツ)の補給バランスを変えるほどだったといいます。
SM.79「スパルヴィエロ」は、エアレース機としては花を咲かせることができなかったものの、その優秀性から数々の世界記録を打ち立て、最後は地中海の戦いで短い栄光を掴んだといえるのではないでしょうか。