埼玉県にある航空自衛隊の入間基地に、レストアされた古いロケット機を見つけました。これは旧日本海軍が太平洋戦争末期に配備した特攻機「桜花」。なぜ、この機体は元陸軍の飛行場だった入間基地にあるのでしょうか。
入間基地に眠る海軍機「桜花」
筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)は先日、埼玉県狭山市にある航空自衛隊入間基地の「修武台記念館」を訪ねる機会に恵まれました。この施設は基本的には隊員向けの歴史教育用ではあるものの、入間基地の公式ホームページから事前登録すれば一般人も見学できます。
館内は、太平洋戦争終結後に発足した航空自衛隊の歴史や機材を紹介するコーナーだけでなく、戦前に始まった我が国の航空の黎明期や、その後の陸軍航空隊ならびに海軍航空隊の歩み、さらに各種軍用機を解説するコーナーも設けられていました。
それら展示を見ながら館内を巡っていると、奇妙な航空機が目に飛び込んで来ました。その明るく少し青みがかったグレー色に塗られた1人乗りの機体は、胴体や主翼が切り離された状態で展示されていました。加えて、機首にはプロペラなど見当たらず、側面には紅色の桜のマークが描かれています。なんと、これは太平洋戦争の末期に敵艦に突入する目的で開発された特攻機「桜花」一一型のレストアされた実機だったのです。
航空自衛隊入間基地の歴史資料館「修武台記念館」で展示される、実物のロケット機「桜花」一一型。レストア後、胴体は機首で分離され、再生された木製の主翼と共に構造がわかる見せ方となっている(吉川和篤撮影)。
そもそも、ここには元々、終戦まで旧日本陸軍航空士官学校の本部庁舎が置かれていました。戦後はアメリカ軍が接収して在日米空軍の基地として使用され、第5空軍司令部やV爆撃隊(当時)司令部、第41航空師団(当時)司令部が置かれます。そして滑走路や格納庫を含んだ広大な飛行場エリアも含めてジョンソン基地と呼ばれ、周辺にはアメリカ空軍の将校用宿舎も建設されました。
その後、1954(昭和29)年7月に航空自衛隊が発足すると、その4年後には敷地の一部が日本側へと返還され、入間基地が開設されます。1962(昭和37)年6月にはアメリカ空軍が横田基地へ移駐したことで、修武台の建物も日本側へと返還。こうして1986(昭和61)年に入間基地内の教育用施設として開設されたのが修武台記念館であり、2012(平成24)年3月にリニューアルオープンして現在に至っています。
わずか半年で実機の量産へ
では、修武台記念館に展示されている「桜花」とは、いったいどのような航空機なのでしょうか。
「桜花」は、前述したとおり太平洋戦争の末期に日本海軍で開発された特攻専用機です。「桜花」を開発する前に、日本では「イ号一型甲無線誘導弾」と呼ばれるロケット推進式の誘導爆弾、今でいう空対地ミサイルのようなものが陸軍の手によって研究されていました。
「イ号一型甲無線誘導弾」が開発されたのは太平洋戦争後半、1944(昭和19)年10月のこと。同機は目標近くまで爆撃機(母機)などに搭載されて運ばれると、空中で母機から切り離された後、ロケット推進で目標へと進んでいくというものでした。
しかし、「イ号一型甲無線誘導弾」はジャイロ安定装置や無線誘導装置の不調で結局、完成せずに終わります。しかし、終戦まで研究が続けられて次の「一型乙無線誘導弾」は実用化に至ったと伝えられます。また、赤外線自動追尾式の「ケ号爆弾」や音響追尾式の誘導弾も開発が進められていました。
実機の横で展示される、母機の一式陸攻と「桜花」一一型の模型。両機の大きさの違いが一目で良くわかる(吉川和篤撮影)。
一方、当時の同盟国ドイツに目を転じると、やはり日本と同様に爆撃機で運ばれ、ロケット推進で敵艦に突入する誘導爆弾が開発されています。ドイツでの開発は日本より先行しており、ヘンシェル「Hs 293」と名付けられたこの誘導爆弾は1943(昭和18)年に実戦投入されています。
さらにドイツは、推進装置のない滑空タイプの無線誘導爆弾「フリッツX」も開発。こちらも大戦中旬以降に実戦投入されており、1943(昭和18)年9月には休戦後に米英側についたイタリア海軍の戦艦「ローマ」を撃沈する大戦果を挙げています。
他にもドイツでは、現代の巡航ミサイルの始祖ともいえる兵器「V-1号」を世界で初めて実用化しており、その情報も日本には比較的早い段階でもたらされていたようです。
こうした海外の新兵器情報や陸軍の動きは、とうぜん日本海軍もつかんでいました。海軍は、1944(昭和19)年頃にはロケット推進の無線誘導式爆弾、いわゆる地対艦ミサイルのような兵器を独自に研究し始めます。
しかし、伝わってくる陸軍側の誘導弾開発の遅延や、同年6月のマリアナ沖海戦での大敗を始めとした戦局の急速な悪化などから、無線誘導式では実戦投入が遅れると判断。結果、人間が操縦して目標まで誘導する方式、すなわち特攻兵器の開発へとシフトしたのです。
こうして、1944(昭和19)年8月から「マルダイ部品」との秘匿名称で、有人特攻兵器の試作研究が始まります。わずか2週間という短期間で設計を終えて開発された「桜花」は、機首に1200kgの弾頭(徹甲爆弾)を搭載して火薬推進式の固体ロケットエンジンで飛行する、木製主翼の有人特攻兵器として完成しました。
加えて、同機は双発の一式陸上攻撃機(一式陸攻)の胴体下部に吊られて目標近くまで運ばれるため、着陸装置はなく脱出装置もありませんでした。
悲惨な歴史を伝える「生き証人」
「桜花」の開発と並行して、運用を担うための実戦部隊として第七二一海軍航空隊、通称『神雷部隊』(岡村基春司令)も1944(昭和19)年10月に新編され、ベテランの飛行士らによる訓練も始まりました。
他方で同月下旬には、フィリピン戦で爆弾を搭載した零戦による特攻隊の初出撃・初戦果も記録。そして、部隊新編から5か月後の1945(昭和20)年3月21日、ついに第一回神雷桜花特別攻撃隊が沖縄を攻撃中のアメリカ海軍機動部隊に向けて出撃します。
しかし、このときは敵艦のレーダーに捕捉されて戦闘機による迎撃を受けたため、目標にたどりつく前に一式陸攻18機全機が撃墜されてしまい、積まれていた「桜花」も運命を共にしています。
その後、少数機による分散特攻へと戦術を切り替え、4月12日の第三回神雷桜花特別攻撃隊でようやく米駆逐艦「マナート・L・エベール」を轟沈させる戦果を挙げたものの、一番の目標であった敵空母に損傷を与えられず終わっており、沖縄戦での1か月間で挙げた戦果は、撃沈した駆逐艦1隻、大破は同3隻(うち2隻は使用不能で除籍処分)、ほか3隻に損傷を与えただけでした。
修武台記念館のロケット機「桜花」一一型は、構造がわかりやすい様に実物の胴体と共に復元された木製の主翼、尾翼、弾頭部などが、それぞれ少し離れた状態で展示されている(吉川和篤撮影)。
ただ、アメリカ側からすると「桜花」はやはり脅威だったようです。同機は小型のため、母機(一式陸攻)から発進してしまうとレーダーで捕えにくく、しかも急降下時の最高速度は約940km/hと速過ぎることから、そうなってしまうと撃墜が困難だと感じていた模様です。
だからか、沖縄で鹵獲(ろかく)された機体は直ちに本国へ送られて綿密な調査が行われています。こういったイメージがあったからなのか、終戦後アメリカ軍に接収されて「ジョンソン基地」という名で在日米空軍の拠点となっていた入間基地に、あえて「桜花」が展示機として残されていたそうです。
なお、当時は本部庁舎前の中庭に足場や土台が設置され、その上に飛行状態で展示されていました。
こうして、元日本陸軍の飛行場でありながら展示されていた海軍機「桜花」ですが、基地の返還と共に航空自衛隊へと移管されたことで、改めてレストアされることになりました。しかも、2012年(平成24)3月の修武台記念館のリニューアル後は、屋内での展示へと変更され、いまに至っています。
2024年5月現在、靖国神社の遊就館でも「桜花」は展示されていますが、こちらは精密に作られたレプリカです。そのため、国内で見られる実物の「桜花」は、例年8月のみ一般公開される河口湖飛行館と、入間基地の修武台記念館の機体だけになります。
戦争の悲惨さを後世に語り継ぐには適任といえる入間基地の「桜花」。貴重な航空遺産でもあるため、見学するには基地公式WEBサイトから事前登録する必要があるものの、ぜひとも見学会に申し込んで直接その目で見てみることをお薦めします。きっと何かしら感じるものがあることでしょう。