8世紀から9世紀にかけて日本の首都として平城京が築かれた古都・奈良には、今でも歴史ある街道や遺跡が残り、寺社や赴きある家々が立ち並びます。そのぶん道が狭いところも多く、バスの運転も相当に工夫されています。
古都を走るバス、奈良ならではの苦労あり?
千数百年前には日本の首都として機能していた「平城京」を擁す奈良市。市街地だけでなく至るところに昔ながらの街道や遺跡が残っていますが、その道幅も昔ながらという道路が多く、この地でバスを運行する奈良交通の四苦八苦ぶりは相当なものです。
風景や歴史、そして息を飲むドライビングテクニックなど、座席からさまざまな楽しみ方ができる古都・奈良のバス旅行に出かけてみましょう。
●バスが通ると道路が塞がれる……72系統「押熊線」(大和西大寺駅~押熊)
近鉄の大和西大寺駅から北西へ、奈良時代最後の官寺である秋篠寺への観光輸送と、住宅街の足という2つの顔をあわせ持った押熊線は、運行上の苦労が常に付きまといます。近鉄大和西大寺駅を出たバスは駅北西に続く県道に入っていきますが、その道幅は自家用車ですら行き違いが難しく、バスの進入によって路面のほとんどが塞がってしまうのです。
もともとのどかな山沿いの道であった道路はアップダウンも多く、バスは上下左右に揺られながら歩行者や道路脇の溝、石垣をかわして走ります。頻繁に行われる車内の無線連絡も「いま◯◯先カーブ、白の軽自動車を先頭に4台の自家用車と原付1台がそちらに向かいました」とかなり具体的で、そこまで道路状況を把握していないと運行が難しいのでしょう。
それでも対向車とのすれ違いができない区間も多く、沿線数か所で誘導員さんが誘導棒を回してバスや車を通しています。運転士さんのハンドルさばきもさることながら、誘導員さんがカーブの先まで走って、目で見た上での誘導がなければ、このバス路線の運行は成り立たないことでしょう。
押熊線のバスルートは極めて狭い(2020年9月、宮武和多哉撮影)。
またこの地域は大阪への通勤圏に入っていることもあり、朝晩の乗客はきわめて多く、駅での降車に時間がかかることもあって「大和西大寺駅行きは運賃前払い、押熊方面行きは運賃後払い」という珍しいシステムをとっています。
ちなみに、一部バスルートに並行する形で片側2車線の立派なバイパスがありますが、新道の延伸工事が進んでいません。そもそも住宅や観光地が旧道側に集中しており、しばらくは現行ルートでの運行が続くのではないでしょうか。
バスに居ながら歴史探訪 美しい名前の「歌姫線」
車窓だけでなく、沿線の史跡や地名からも歴史を感じられるのは、奈良のバスの特徴かもしれません。「歌姫線」という美しい名を持つ路線もそのひとつです。
●狭隘路線に歴史が凝縮! 73系統「歌姫線」(大和西大寺駅~歌姫町)
大和西大寺駅から東へ、平城京の太極殿(たいごくでん)北側を通り、京都へ通じる歌姫街道(県道751号)を北へ歌姫町まで走る路線です。乗り通してもわずか7分ほどですが、歌姫街道が狭く小型車で運行され、なおかつ短い道中でギュッと凝縮して歴史をたどることができます。
歌姫街道に入ると、あたりには田畑が広がり、土壁や蔵の造りが、この街道のかつての繁栄ぶりを物語るようです。遠くに広がる山や田畑の緑、そして歌姫の街並みが描くコントラストは、小説『風立ちぬ』で知られる作家・堀 辰雄さんが「ピサロの絵にでもありそうな構図」と評したほど。現在では自動車の交通量も極めて多い街道ですが、通りから遠ざかって眺める田畑の新緑は、いわれてみれば印象派の絵画に出てくる農村の風景のようです。
終点の歌姫町バス停の先には、宮廷の雅楽師たちが住んでいたともいわれる歌姫町の北側には平城山(ならやま)がそびえ、「万葉集」「新古今和歌集」などの短歌や文学作品ゆかりの風景を眺められます。ここら道幅はさらに狭まり、クルマ1台が通るのもやっとというところもありますが、かつては歌姫町から300mほど北、添御縣坐神社(そうのみあがたにますじんじゃ)までバスが運行されていました。
近鉄大和西大寺駅のバス乗り場。左の小型車が歌姫線の車両(2020年9月、宮武和多哉撮影)。
この神社の境内にある奈良時代の貴族・長屋王(ながやのおう)の次の歌碑も、是非とも訪れたいものです。
「佐保過ぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ」(万葉集 巻3 300)
この句は、旅立ちの前に幣(ぬさ。神前に供える道具)を手向けに置き、妹(想い人。この場合は妻)に想いを残しながら寧楽(奈良)を離れる心境を表しているともいわれます。
このように、奈良はバスに乗るだけで歴史と道路の狭隘さを眺めることができる路線が少なくありません。ほかには、薬師寺近辺でクランクカーブを描く近鉄西ノ京駅発着の路線などが挙げられます。
「古都」の歴史と共存 戦後に変貌を遂げた奈良とバス
古都・奈良は戦後、大阪の通勤圏として、里山が切り拓かれ多くの団地が造成されました。
かつては峠越えの山道であった狭隘路を進む「奈良富雄線」の48系統(近鉄奈良駅~学園前駅)などは、沿線に垂仁(すいにん)天皇陵や農業用の池もあり、これらを避けるように蛇行している道路沿いにできた住宅団地の足として運行されています。バスはこの路線でも細やかな無線連絡を行ない、狭隘区間でバスが行き合わないように調整をとっています。
また奈良市の北西部や生駒市北部に位置する近鉄けいはんな線の沿線は、大阪の地下鉄(中央線)に直通していることもあり、バブル期以降、すっかり大阪郊外の住宅地に変貌を遂げました。
もともとは民家や農作業小屋を縫うようにローカルバスが走る地域でしたが、急速な発展でバス路線も本数も激増し、朝晩には乗るのもやっとという状態が長く続きました。2列に並んで乗車できる4つ折り扉の車両や、前・中・後の3扉車の採用、急行系統の運転など、奈良交通は多くの乗客をさばくための対策を積極的に行い、今日に至ります。
48系統の畑バス停付近も狭隘だ(2020年9月、宮武和多哉撮影)。
そうしたなか、新道を走る幹線路線バスに混じって、94系統(富雄駅~傍示)など、昔ながらの道を走るローカル路線もひっそりと残っています。広いバイパスと交差しながら、のどかな道を盆地の山裾まで走る車窓は、ひと昔前と現代を交互にタイムスリップしているような感覚を味わえます。
また、奈良時代以前の歴史をたどるなら、奈良市北東の郊外へ延びる広岡線(近鉄奈良駅~広岡)や、「日本一長い路線バス」こと八木新宮線(大和八木駅~新宮駅)も良いでしょう。前者は後醍醐天皇など南朝の要人が落ち延びた京都~奈良間の「裏」街道をたどることができ、後者は神武天皇が八咫烏(ヤタガラス)に案内された神話のルートをさかのぼれます。このほか、剣豪の列伝で知られる柳生街道や忍辱山(にんにくやま)をたどる石打線(近鉄奈良駅~石打)などもオススメです。
座席に座ったままで1000年、2000年前から近代までのさまざまな歴史をたどることができるのが、古都・奈良のバス旅行の魅力ではないでしょうか。