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織田有楽斎―逃げ足自慢の茶道オタク

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織田有楽斎―逃げ足自慢の茶道オタク

織田有楽斎―逃げ足自慢の茶道オタク

天野純希 「戦国サバイバー」

逃亡者

 その日、京都二条御所は水色桔梗の旗を掲げる大軍に包囲され、炎に包まれていました。
 包囲軍の将は惟任日向守こと明智光秀。すでに本能寺を攻め落とし、主君織田信長を自害に追い込んでいた彼は、二条御所に籠もる信長の嫡男・信忠の抹殺を目論んでいたのです。光秀率いる明智軍は一万三千。対する信忠軍はわずか五百。信忠配下の将兵は奮戦したものの、多勢に無勢とあって敗北は目の前に迫っています。
 そんな中、燃え盛る御所からこっそりと脱出する一人の中年男がいました。
 信長の弟、織田源五郎長益――後の有楽斎です。
 茶道・有楽流を創始し、国宝に指定された茶室『如庵』を造った一流の茶人でありながら、武将としては無能・臆病の烙印を押され、「人でなし」とまで言われた有楽斎。
 そんな彼が、いかにして激動の乱世を生き抜いたのか。その謎解きに、しばしお付き合いください。

パッとしない弟

 織田長益は天文十六年、織田信秀の十男、あるいは十一男として生まれました。信長とは、十三歳の差です。
 母は信秀の側室とされていますが、定かではありません。同年生まれの姉あるいは妹に、有名なお市の方がいます。
 彼の前半生は、謎に包まれています。と言うよりも、史書に名が残るような事績が何も無かったと言った方が実態に近いのでしょう。母の素性はおろか、生まれ育った場所も、初陣がいつであったかさえ、史料から明らかにすることはできません。
 彼の幼少期から少年期にかけて、織田家は内憂外患の真っ只中にありました。信長の家督継承に不満を持つ弟・信勝の反乱。隣国・今川家の侵攻。『信長公記』を著した太田牛一あたりからしてみれば、信長の動向を記すのに精いっぱいで、歳の離れた、しかも大して目立たない弟に割ける紙幅は無かったのでしょう。
 ともあれ、信長は信勝を謀殺して織田家を掌握し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ります。かつて“うつけ”と呼ばれ、信勝を殺害し、“海道一の弓取り”と称された名将・義元の首を持ち帰った信長を、彼はどんな思いで見つめていたのか。若者らしい憧れか、それとも恐怖か。残念ながら、その心中を推し測る術はありません。
 さて、元服をすませ、恐らく初陣も経験したであろう長益は天正二年、信長から尾張国知多郡に領地を賜り、大草城の城主となります。
 この時、長益はすでに二十八歳。信長の弟としては、城主に取り立てられるのは遅いくらいです。しかも、与えられたのは最前線から遠く離れた尾張の地。信長としては、戦場で目立った働きの無い長益に、さしたる期待も寄せていなかったようです。実際、伊勢長島攻めや長篠の戦いといったこの時期の重要な合戦に、長益が参陣したという記録は残っていません。おそらくこの時点で、長益の武人としての低評価は定まっていたものと思われます。
 長益がいつから茶の湯の道にのめり込んだのか、これも史料から明らかにすることはできません。長益の茶の湯の師を光秀とする説も存在しますが、こちらはあまり信用できない史料によるもののようです。
 しかし、“茶の湯御政道”を掲げ、茶道と政治をリンクさせた信長の弟ともなれば、記録には残っていないにしても、当代一流の茶人である千利休、今井宗久、長谷川宗仁らの手並みを間近に見る機会もあったことでしょう。後の茶人・織田有楽斎の下地は、この時期に作られた可能性が大いにあります。
 とはいえ、信長の弟である以上、長益は武将としての働きを求められる宿命にあります。天正九年二月の京都御馬揃え、翌十年一月の左義長には、長益も織田一門衆として参加。同年二月の武田攻めでは、信忠の軍に属し鳥居峠の戦いに参戦、降伏した深志城の受け取りを務めました。
 重要な武田攻めを大過なく終えたことに、長益も安堵したことでしょう。宿敵・武田氏を滅ぼしたことで織田家の天下は定まり、自分の身の上も安泰。
「これからは茶の湯三昧の毎日だ!」などとほくそ笑んでいたかもしれません。
 ところが、そうは問屋がおろさなかったのです。

「人でなし」

 運命の天正十年六月二日、信忠に従って上洛し、京都妙覚寺に宿泊していた長益の安眠を、「明智謀叛」の報せが破ります。
 あれよあれよという間に信長自害の続報が届き、長益は信忠と共に二条御所へと移りました。しかし敵は大軍、御所はたちまち囲まれ、味方は次々と討ち死に。御所には火までかけられてしまいます。
『当代記』、『武家事紀』などが記すところによれば、この時、長益は信忠に対して切腹を勧めたということになっています。
「脱出を図ったところで逃げられるはずがない。万一捕縛されて天下に恥を晒すより、叔父甥揃って潔く自害し、織田一門の意地を示そうではないか」とでも説いたのでしょう。だとすれば、長益にはちょっと似合わないくらい、武士らしい言葉です。信忠は「であるか」と頷き、見事腹を切って果てました。
 信忠の最期を見届けた長益は、甥の遺体が敵の手に渡らないよう燃やし、それから自分も腹を切ろうと考えました。しかし、遺体を焼くための薪を集めていたところ、とうとう敵兵が雪崩れ込んできました。腹を切る暇も無いので、長益はいったん薪の中に身を隠します。
 どれほど隠れていたのか、気づけば周囲から敵兵の姿が消えていました。長益は再び考えます。切腹とは、誰かが目撃し、世に語り継がれてはじめて意味を成す。ならば、誰も見ていないところで人知れず腹を切っても、それはただの犬死にではないのか?
 長益は決断しました。逃げよう。ここは恥を忍んで生き延びようと。ここで織田一門が死に絶えては、光秀の思う壺。誰かが生き残れば、織田家再興の機会が巡ってくるかもしれない。
 という理屈で彼が動いたかどうかはわかりません。信長・信忠は自害したものの、他に信雄・信孝や三法師丸といった信長の子や孫が健在です。残念ながら、長益が生きようが死のうが、大勢にはこれっぽっちも影響が無いのです。最初は切腹して果てるつもりだったのが、いざとなると怖くなったのか、あるいはそもそも死ぬ気など無かったのか。真相は恐らく、彼本人にもわからないでしょう。
 ともあれ、長益は混乱の中、まんまと二条御所から抜け出します。驚くべきことに、武将としての才能に恵まれていたとは到底思えない長益が、明智軍が制圧しつつある京都の町からの脱出を果たしたのです。この逃げ足の速さ、悪運の強さは、彼が兄・信長から受け継いだ数少ない才能だったのかもしれません。
 しかし命からがら生き延び、光秀の敗死に胸を撫で下ろした長益を待っていたのは、武将としての死でした。

 織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて 我は安土へ逃ぐるは源五 むつき二日に大水出でて 織田の原なる名を流す

 本能寺の変の後、京都ではこんな戯れ歌が流行ったといいます。信忠に切腹を勧めておきながら自身は逃げ出した長益は、人でなしだというのです。それにしても、「人ではない」とはなかなかに手厳しい。
 敢えて彼を弁護するとしたら、信忠に切腹を勧めたという確かな証拠はありません。『当代記』、『武家事紀』は共に、変から数十年後に書かれた史料であり、記述をそのまま信頼することはできないからです。加えて、二条御所の戦いを生き延びたのは何も、長益一人ではありませんでした。他にも少なくない織田家家臣が、二条御所から脱出しています。
 とはいえ、織田一門でありながら、長益が御所から逃亡したのは紛れもない事実です。ただでさえ高くなかった評価と信用は、完全に地に堕ちました。
 命こそ助かったものの、織田源五郎長益の武将生命は、この一件で完全に絶たれたのです。

外交官・長益

 本能寺の変の後、長益はしばらく堺の町に潜伏し、それから信長の次男・信雄のもとに身を寄せました。その間にも、光秀を討って織田家中の主導権を握った秀吉は、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て、着々と信長の後継者としての立場を確立していきます。
 これに対し、信雄は徳川家康と手を組み、秀吉に宣戦布告しました。小牧・長久手の戦いの勃発です。世話になっている手前、長益も参戦せざるを得ません。
 秀吉と家康・信雄連合軍の主力が睨み合いを続け、膠着状態が長引く天正十二年六月、長益は徳川家臣・榊原康政と共に、滝川一益の籠もる蟹江城攻めに参陣しました。
 この後、信雄は家康を差し置いてさっさと秀吉と講和してしまうのですが、この和平交渉に長益が一役買っています。
 戦は不得手な長益ですが、こうした交渉事にはそれなりの能力を発揮したようです。もちろん、「あの信長の弟」というネームバリューも手伝ってのことですが、長益は幸か不幸か、この後も何かと和平の斡旋という役割を背負わされることになります。
 家康は信雄の戦線離脱により撤退し、小牧・長久手の戦いは終結しました。大役を果たした長益ですが、息つく間もなく今度は秀吉と越中で反秀吉闘争を続ける佐々成政、さらには家康との間の和平交渉に駆り出されてしまいます。秀吉は長益の持つ「信長の弟」という看板を最大限に利用したのです。
 ここで想像をたくましくして、歴史のIfを考えてみたいと思います。もしも長益が二条御所で自害していれば、その後の歴史はどうなったか?
 秀吉と信雄の和睦を取り持つ人物がおらず、小牧・長久手の戦いは史実と違った様相を呈していたでしょう。家康・信雄連合が瓦解しなければ、各地の反秀吉勢力も勢いづき、秀吉は窮地に陥ったかもしれません。さすがに信雄が秀吉に代わって天下を獲るということはなさそうですが、秀吉の天下統一が少なくとも数年は遅れ、茶道の歴史も大きく変わっていた可能性もあります。戦国史では刺身のツマみたいな扱いをされがちな長益ですが、歴史に何らの影響も与えなかったということはないのです。
 さて、長益の奔走により和平は成り、天下は豊臣家によって統一されました。しかしその直後、主君の信雄が秀吉の怒りを買い、領地を没収されるという事件が起こり、長益も禄を失ってしまいます。
 ですが、長益はすぐに豊臣家に鞍替えして秀吉の御伽衆となり、摂津国味舌二千石を与えられます。この味舌は茶の栽培に適した地で、長益はすでに茶人としてある程度認められていたようです。
 この頃、長益は剃髪し、有楽斎と号しました。もっとも、当初は無楽斎と名乗りたかったようですが、「楽しみが無いとはいかがなものか、以後は有楽斎とせよ」と秀吉に勧められたので、断ることもできずその通りにしたそうです。せっかく考えた号をたった一言で正反対のものに変える破目になった彼の口惜しさは、いかばかりのものだったでしょう。
 ともあれ、有楽斎は念願の茶人として、いわば第二の人生をスタートするのです。
 実際、有楽斎の茶人としての活動が、この時期から活発になります。秀吉主催の北野大茶会、朝鮮出兵の際に名護屋の陣営で開かれた茶会などに頻繁に顔を出し、千利休や古田織部、細川幽斎といった一流茶人、文人たちと交流を深めていきました。あるいはこの豊臣時代が、彼の人生でもっとも華やかで充実した日々だったかもしれません。

なぜか関ヶ原へ

 秀吉没後、家康は五大老筆頭として自家の勢力拡大に努めます。加賀の前田家を屈伏させ、石田三成を失脚させると、今度は会津の上杉景勝討伐の軍を起こします。
 この時、会津へ向かう軍勢の中に、なぜか有楽斎がいました。有楽斎の禄高はわずか二千石、率いる兵もたったの四百五十人です。
 彼の参陣が、家康の要請か、自分の意思によるものかはわかりません。前者であれば、上杉との和平交渉に有楽斎が使えると踏んだのでしょう。ですが後者だったとすると、少々不可解です。そもそも武人としての評価が皆無の彼に、合戦での活躍を期待する者は誰もいません。家康の天下を見越してすり寄ったのか、あるいは武人として名を上げる最後のチャンスと考えたのか。この時、有楽斎は五十四歳。茶人としては成功しつつあるものの、武士として生まれたからには、人生で一度くらい武功を立ててみたい。そんな思いもあったのかもしれません。
 内心はともかく、有楽斎は関ヶ原本戦にも参加し、石田三成家中の猛将・蒲生頼郷を討ち取るという武功を立てました。
 もっとも、その状況を詳しく見てみると印象は大きく変わります。
 蒲生頼郷は名字が示すように、かつて会津を領した名将・蒲生氏郷の旧臣で、主家が転封となった後に牢人して三成に仕えていました。
 頼郷は石田隊の敗走後に味方とはぐれ、たまたま行き合った旧知の有楽斎に声を掛けられます。
「そこを行くのは蒲生殿ではないか。徳川殿に貴殿の助命を掛け合うゆえ、我に降れ」
 大勢は決したとはいえ、いまだ天下分け目の大戦の最中です。いきなり「助けてやるから降参しろ」と言われたところで、はいそうですかと応じては武士の面目が立ちません。激怒した頼郷は、「嘗めてんじゃねえよ」とばかりに刀を抜き、有楽斎に斬りかかります。
「助けてあげるって言ってるのに、何で!」
 そう思いながらも、有楽斎は持ち前の危機察知能力を発揮し、頼郷の一撃をかわします。しかし勢い余って落馬。迫る頼郷。絶体絶命かと思われたその時、有楽斎の家来・千賀文蔵と文吉の兄弟が駆けつけました。有楽斎が馬から落ちたのを見た彼らは主君が討たれたと勘違いし、仇を討ちにきたのです。
 さすがの猛将頼郷も早朝から続く戦いで疲れていたのか、二人を相手に力尽き、討ち取られてしまいました。また別の説によれば、主君が生きていると知った兄弟は、頼郷の首を有楽斎に獲らせ、手柄を献上したとも言われています。
 どちらにしろ、武勇伝とは程遠い逸話です。上から目線で降伏を呼びかけ、激怒されて斬りつけられる。落馬しただけで家来に死んだと思われる。せっかく一念発起して戦場に出たにもかかわらず、こうしたエピソードばかりが残ってしまうあたりが、織田有楽斎という人物を物語っているように思えてなりません。
 経緯はさておき、戦場で初の武功を立てた有楽斎に家康は喜び、三万石の加増という大盤振る舞いで報います。しかし、(討たれた頼郷には気の毒ですが)この程度の手柄で三万石の加増というのは異例です。
 そこには、戦後を見据えた家康の深慮遠謀がありました。

大坂の陣と有楽斎

 関ヶ原の戦いの後、有楽斎は大坂城下の天満に居を構え、豊臣家を切り盛りする淀殿の補佐を務めました。有楽斎にとって淀殿は姪に当たります。
 補佐といっても相談役のようなもので、政治の実務は片桐且元や大野治長といった豊臣家の家臣たちが執り行っています。有楽斎は政務に忙殺されることもなく、天満の屋敷に造った茶室で茶の湯三昧の日々を愉しんでいたようです。
 ただ、遊んでばかりいたわけでもなく、慶長十六年には家康と豊臣秀頼の会見を実現すべく奔走しています。上洛中の家康が、秀頼に対面を求める使者に、有楽斎を指名したのです。有楽斎はこれに応えて折衝に当たり、会見の実現にこぎつけました。京・大坂の民衆は「これで天下も泰平だ」と大いに喜んだといいます。
 余談ながら、家康はこの二条城会見で秀頼の成長ぶりに驚き、豊臣家を滅ぼすことを決意したと言われることが多いようです。しかし、それは俗説と言っていいでしょう。秀吉はかつての主家である織田家を滅ぼすことはせず、有楽斎ら織田一門をそれなりの待遇をもって迎えています。同様に、家康にとって主筋に当たる豊臣家を、悪名を着てまで滅ぼす必要はありません。現状を受け入れ、一大名家として生きることさえ決意すれば、豊臣家の存続は許されたはずです。そうなれば、有楽斎も楽隠居として穏やかな晩年を過ごせたことでしょう。
 しかし、徳川・豊臣の関係は方広寺鐘銘事件をきっかけに急速に悪化、大坂にはにわかに戦雲が立ち込めます。豊臣恩顧の加藤清正、浅野幸長、池田輝政らが相次いで没し、豊臣家中の主戦派を抑えられる者はいません。
 この時期、有楽斎は大坂で頻繁に茶会を開いています。客として招かれた主な人物は、筑前五十二万石の大大名・黒田長政、徳川家の政商・茶屋四郎次郎、片桐且元、大野治長ら、徳川・豊臣双方の大物たちです。さらには秀頼も二度にわたって屋敷に招かれ、手並みを披露されました。また、慶長十九年二月には江戸へ赴き、肥後の大名・細川忠興と共に将軍秀忠主催の茶会に参加しています。茶室という密室の中でどんな話題が出たのか確かめようもありませんが、徳川・豊臣間の融和に努めたと見るのが自然でしょう。
 ところが、努力の甲斐無く情勢は悪化の一途を辿り、慶長十九年十一月、ついに徳川方と大坂方との間で戦端が開かれます。
 和平工作が失敗に終わったからには、大坂城から退去してもよさそうなものです。豊臣家の相談役とはいえ、彼の扶持はあくまで徳川家から与えられたもの。ここで豊臣家を見限ったとしても、それほどの非難は起こらないでしょう。しかし有楽斎は、開戦後も城内にとどまりました。本能寺の変に際しては一人でさっさと逃げ出したあの有楽斎が、です。
 恐らく、彼にはまだ城内でやるべきことが残っていたのでしょう。考えられるのは、家康の要請による和平工作以外にありません。いざ開戦となった場合の交渉チャンネル。その役割を、有楽斎に求めたのです。
 今も昔も、戦争で最も難しいのは、落としどころを見つけることです。敵方を滅ぼす、あるいは明白な勝利を収めて屈伏させることができれば問題ありませんが、そうでない場合は敵方との交渉が必要になるのは言うまでもありません。
 双方の妥協点を見出し、戦争を終結させるには、敵味方双方に顔が利き、それなりのネームバリューと幅広い人脈を持ち、なおかつできるだけ中立的な立場の人物が必要とされます。それには、有楽斎がうってつけだったのです。軍事的な才覚や政治的野心を持たないことも、この場合はプラスになったことでしょう。
 有楽斎が大坂城にいたのはスパイの役割を担っていたからだという説もありますが、それは少々疑問です。大切なパイプ役にスパイ行為までさせて、発覚して殺されてしまっては元も子もありません。
 さて、戦国の掉尾を飾る大合戦が始まったものの、名高い真田丸に籠もった真田信繁の活躍もあり、戦況は次第に膠着します。
 こうした中、有楽斎は大坂方穏健派の大野治長と共に、講和に向けて動きはじめました。まずは家康の腹心・本多正純と書状をやり取りし、講和条件を詰めていきます。
 家康の意を受けているからといって、徳川方の条件を唯々諾々と受け入れるわけにはいきません。そんなことをすれば、大坂方の主戦派に斬られかねないからです。
 本多正純に宛てた十二月三日付の書状で有楽斎は、「講和は望むところだが、軽率な挙動は内応と誤解される恐れがある。城中の気風を次第に和平に導こう」と記しています。和平工作といっても、有楽斎にとってはまさに命懸けでした。
 徳川方の要求は、淀殿を人質として差し出すか、大坂城の堀を埋めるかのどちらかを選べというものです。有楽斎は、淀殿を人質に出す代わりに、大坂城に籠城する牢人たちのために加増を要求するという妥協案を提示しますが、家康はこれを却下。さらには威嚇のため、ヨーロッパから購入した大砲を城内に撃ち込みます。
 激しい砲撃音と屋根を突き破って降り注ぐ砲弾に、さすがの淀殿も慌てました。本丸への着弾で侍女八名が死亡するにいたり、ついに一刻も早い講和を決断します。
 互いに代表を出しての講和会議は、十二月十八日から行われました。
 徳川方は、淀殿を人質にするという案を取り下げ、大坂城の堀と二ノ丸、三の丸の破却、淀殿の代わりに有楽斎と大野治長からそれぞれ人質を出すという条件を提示。大坂方は、豊臣家の本領安堵と秀頼をはじめとする城中諸士の罪を不問とすることを求めます。翌十九日にはこれらの条件で合意し、講和が成立しました。有楽斎は、五男の尚長を人質として徳川家に差し出します。
 同月二十四日、有楽斎は大野治長と共に茶臼山の徳川方本陣を訪れ、家康と会見。その翌日に家康は陣を払い、大坂冬の陣は終結したのでした。
 しかし言うまでもなく、この講和は仮初めのものに過ぎませんでした。

 翌慶長二十年三月、いまだ大坂城内にとどまっていた牢人たちが、埋め立てられた堀を掘り返しているという報せが徳川方にもたらされました。大坂方の明白な条件違反です。さらには、牢人たちが京都に出向いて乱暴狼藉を働いているとか、大挙して京都に押し寄せ、町に放火しようとしているといった噂まで流れはじめました。
 これを受けた家康は、牢人衆の召し放ちか、豊臣家の国替えに応じるよう大坂方に迫ります。当然、大坂方がこれを受け入れるはずもなく、牢人たちは激昂、あろうことか、穏健派の代表格である大野治長を襲撃し、負傷させるという事件まで起こしてしまいました。
 もはや、ヒートアップした主戦派は有楽斎の言うことなど聞く耳を持ちません。家康もとうとう匙を投げ、大坂再征の号令を発します。
 四月二十六日、大坂方の大和郡山城攻めで火蓋が切られた大坂夏の陣は五月七日、淀殿、秀頼母子の自害という形で幕を下ろします。
 この戦いで、有楽斎はいかなる役目も果たしませんでした。開戦にいたる流れはもはや、彼一人がどう動こうとも押しとどめることはできなかったのです。いつの時点からか明確にすることはできませんが、家康はすでに豊臣家を滅ぼす腹を固めていたので、交渉役は必要ありません。
 当の有楽斎は、主戦派が掌握した大坂城内で居場所を失い、夏の陣開戦の直前に城から退去しています。命からがら逃げ延びたのか、それとも誰にも顧みられることなくひっそりと城を去ったのか、その時の状況も定かではありません。
 開戦後の四月二十九日に、ある僧侶が有楽斎のもとを訪問したという記録が残っています。それによると、有楽斎はこの時、京都二条のあたりに住んでいたようです。
 大坂落城、豊臣家滅亡の報せをどんな心境で受け取ったのか、それを記す史料は存在しません。

余生、そして大往生

 大坂夏の陣終結から三ヶ月後、有楽斎は所領を息子たちに分与し、京都で隠居します。隠居料として一万石をちゃっかり自分の手元に残すあたり、実に彼らしい。趣味の道は、とかくお金がかかるものです。ちなみに、有楽斎から一万石ずつを相続した四男・長政と五男・尚長の子孫は、外様の小大名として江戸時代を生き抜き、明治にいたるまで存続しました。
 最晩年の有楽斎の暮らしは、まさに茶の湯三昧でした。一方で、しばしば旅行に出かけ、江戸や駿府でも旧知の人々との茶会に参加しています。幕府の黒幕、黒衣の宰相などと仇名される金地院崇伝は、特に有楽斎との親交が深く、有楽斎から茶の湯の手ほどきを受けていました。
 有楽斎の創始した茶道『有楽流』は、商人であった利休とは異なり武家風ですが、その本質は、定法や格式に捉われることなく、客をもてなすことにあります。
 有楽斎を利休の高弟である『利休七哲』に数えられないこともあるのは、有楽斎が型に嵌められた作法を嫌い、より自由な茶の湯を求めたことも理由の一つでしょう。あるいは権力に利用され、翻弄された末に捨てられた利休を目の当たりにしたことで、自身の茶の湯と政治との間に一定の距離を保ちたかったのかもしれません。有楽斎にとっての茶の湯は、他の誰にも立ち入ることのできない聖域だったのです。
 現在、国宝に指定されている茶室『如庵』を造ったのも、この頃のことです。元々は京都建仁寺の一角に建てられたものですが、今は愛知県犬山市の有楽苑に置かれています。
 如庵の内部は、利休の茶室よりも広く、風通しを良くし、陽光を多く採り入れるための細工が為されています。他にも、武家風の好みを残しながらも前例に囚われない工夫が随所に見られます。この茶室からは、「茶室の中くらい、息苦しい思いはしたくない」という有楽斎の心の声が聞こえるような気がします。
 有楽斎は、長く時代の激流に翻弄されながらもきわどいところで生き残り、老境に入ってようやく悠々自適の隠居暮らしを手に入れたのです。
 そして元和七年、京都にて没。享年、七十五。死因は中風(脳卒中)で、当時としては長命と言えるでしょう。

 苛酷な乱世を生き延びるには、様々な要素が必要です。
 本人の力量はもちろん、血筋や家柄、人望、人脈、そして運。しかしその最たるものは、本人の「生き延びる意思」ではないでしょうか。
 戦下手、臆病者、裏切り者といった風評に負けず、「信長の弟」という、重すぎる肩書にも押し潰されず、生き残ることに全力を注いだ有楽斎のエネルギーの源は、茶の湯への情熱でした。
 方々で陰口を叩かれ、意に沿わない仕事を押しつけられ、心が折れそうになってもなお、屋敷の茶室で点てる一服の茶が明日の活力を与えてくれる。そしていつの日か、茶の湯に没頭できる余生を手に入れることを夢見て、有楽斎は戦国の世を必死に泳ぎ続けたのかもしれません。
「芸は身を助ける」とは言いますが、趣味への情熱が人を生かすこともあるのだと、彼の生き方を見ていると思えるような気がします。

 ところで、東京の有楽町は有楽斎の屋敷があったことから名付けられたと言われていますが、この話はどうやら眉唾もののようです。
 そもそも、有楽斎が江戸に屋敷を持っていたという確証はありません。では、なぜ有楽町と名付けられたのか。元々、この辺りは水辺で、「浦原」「浦ヶ原」などと呼ばれていたことから、「浦」に「有楽」の字があてられた、ということのようです。
 住んでもいない場所が、自分にゆかりの場所として語られる。そのあたりの間の抜け具合も、有楽斎という人によく似合う逸話ではないでしょうか。

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