アニメやミュージカルでも大人気
幕末の京洛(きょうらく)で剣を振るった新選組の副長、土方歳三(ひじかた としぞう)。
彼を題材にした作品は、小説だけでなく漫画やアニメ、ミュージカルなども制作されていて、年代を問わないその人気は今も高まるばかりです。
2020年は新型コロナ禍のあおりで影響を受けましたが、例年なら、命日の5月11日に東京・日野市の生家跡の土方歳三記念館(日野市石田)は大変なにぎわいを見せます。
北海道・函館市では毎年5月中旬に「五稜郭(ごりょうかく)祭り」が催されますが、初日の最大のイベントが土方歳三コンテスト。国内から参加した大勢の男女が歳三に扮(ふん)して登場し、見事な太刀さばきを見せ、弾丸に斃(たお)れる――。沿道を埋めた観衆から喝采(かっさい)を浴びます。
それにしても歳三って、なぜそんなに人気があるのでしょう。
遺体を巡る論争、いまだ決着せず
ただ1枚しか残されていない写真の優しい顔立ち、ドラマに登場するさっそうとした殺陣(たて)、男らしい振る舞い、といろいろあるでしょうが、原因はもっと違うところにありそうです。
実は、遺体がいまだに発見されていないのです。戦死した現地の函館でも、何度か遺体を巡る論争が起こっていますが、決着が付いていません。
「敵弾 腰を貫き、ついに戦死」
最期もはっきりしていません。その朝、新政府征討軍の箱館(はこだて)市中総攻撃を受け、弁天台場と連絡が絶たれたため、歳三は少数の精鋭を率いて五稜郭を出発し、一本木関門で戦死したとされます。
しかし、蝦夷島臨時政権軍・江差奉行並の小杉雅之進(こすぎ まさのしん)『麦叢録(ばくそうろく)』には、「此役(このえき)土方歳三殿、一本木ニ於テ戦死ス」、同陸軍奉行大鳥圭介の『陣中記』は「一本木で流れ玉に中(あた)りて戦死」と書かれているだけなのです。
新選組の同志の文章はさすがにもっと詳しく、中島登の『覚書』は「土方公、台場(弁天)ヲ助ンカ為、額隊一小隊、伝習一小隊ヲ引箱館ニ向ヒ、一本木関門ヨリ打込進ンテ異国橋ニ至リ、馬上ニ指揮シ遂ニ銃弾ニ当リ、落命被至(いたさる)」とあり、異国橋まで進撃して戦死したと書かれています。
同じ新選組の立川主税(たちかわ ちから)の『戦争日記』も「一本木ヨリ進撃ス。土方歳三、額兵隊ヲ曳キ後殿(しんがり)ス、故ニ敵退ク。(中略)亦(また)一本木ヲ襲ニ、敵弾腰間ヲ貫キ、遂ニ戦死シタモウ」とあります。
信憑(しんぴょう)性の高いのが、やはり新選組の大野右仲(おおの うちゅう)の『函館戦記』です。長文ですが掲げます。
遺体の行方を巡るいくつもの説
「蟠龍(ばんりゅう)、敵数艦ト砲台ニ相応シテ戦フ、朝陽艦ヲ砲砕ス。海ニ轟キ雷ノ如シ。炎焔ハ天ニ漲ル。我カ軍皆、快ヲ叫ブ。歳三大喝シテ曰ク、『此機失フヘカラス、士官隊ニ令シテ速ヤカニ進メ、然(しか)シ敗兵卒ニ用ヒ難シ。吾、此柵(一本木)ニ在リテ退者ヲ斬(き)ル。子(大野)卒ヲ率テ戦ヘ』」
味方の蟠龍艦が敵艦を爆砕したとき、歳三は大野に進撃を命じるとともに、逃げる者がいたら、歳三が関門にいてこれを斬ると叫ぶのです。
文章をもう少しかみ砕いて続けます。
ところが兵卒が「退路を断たれた」と言って逃げ出し、勢いが止まらない。歳三が関門にいて斬るはずなのに、と思い、関門を見ると、歳三の姿は見えない。
後になって「始メテ奉行(歳三)ガ馬ニ跨(またが)リ柵側ニ在リ、狙撃サレテ死スルヲ知ル」のです。
地元に残る話は、腹部を撃たれて落馬した歳三は、同志の相馬主計(そうま とのも)と島田魁(しまだ かい)に両脇を抱えられ、400mほど離れた農家の納屋に運ばれ、応急手当てを施されましたが、夕方近く、同志の呼びかけに「すまんのう」と応えて息を引き取った、というものです。
最大の謎は、華々しい戦死だったのに遺体の行方が判然としないことです。
伝えられているのは函館の、五稜郭内の松の木の下説、碧血碑(へきけつひ)そば説、七重(ななえ、七飯)の閻魔(えんま)堂説、函館・神山町の大円寺の無縁塚説。
それに、東京・日野の金剛寺の過去帳に記されている「箱館浄土宗称名寺(しょうみょうじ)石碑之有」から、函館の称名寺説など。
だが、いまだに見つからないのです。なぜでしょうか。
ミステリアスさが人気を後押し
新政府軍の目を欺(あざむ)こうとしたため、と筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は推理しています。
実は、箱館戦争終結直後の新政府軍による賊軍狩りは熾烈(しれつ)を極めました。旧幕兵をかくまっているといううわさだけで、その家の女性までが脅かされ、鼻や耳を刀でそがれたといいます。
そのため真夏でも、鼻を隠すマスクをしたり、髪を増やして耳を隠したりする人がいたそうです。
歳三は新政府軍にもっともにらまれていた人物ですから、遺体が見つかったらどんな仕打ちを受けるかと、ひたすら隠し続けたのでしょう。
歳三の馬の世話役で、遺体を運んだ少年は、時代が大正になっても、最後まで口を割らなかったといいます。これは少年の晩年を知る、筆者の老知人の話です。
ですから、遺体はどこにあるのか、判然としないままです。でもそれがまたミステリアスな歳三の側面を描写していて、人気を盛り立てているのかもしれませんね。