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一流の競輪選手がタクシー運転手に転身したわけ

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一流の競輪選手がタクシー運転手に転身したわけ

一流の競輪選手がタクシー運転手に転身したわけ

いつも鏡を見てる

いつも鏡を見てる 第5話

林利男さん 1973年12月1日~1974年2月25日

 先月の卸売物価は、つまり、石油危機のあおりをもろに受けた1973年12月の卸売物価は、前の月に比べ7.1パーセントも上がっていた。この数字、敗戦直後に記録した8.2パーセント以来のけたはずれの上げ幅だそうで、そのことを指し、日銀が「終戦直後なみの暴騰」と発表したとテレビや新聞が叫んでいる。どこかの新聞が「主要国で最高の上昇率」とも書いた、その日の深夜のことだった。

「運転手さん、あんた林利男いうんか。昔な、A級1班*1の有名な競輪選手で林利男いうのがいてな、わし、好きな選手やった」

 午前一時を過ぎた北大路通りに人の姿はまるでなくて、大徳寺あたりは商店が並んでいるわけでもないから街灯の光が届かない歩道は薄暗い。それでも50年輩とおぼしき男が手をあげる姿を遠くからでも確認できたのは、大徳寺のすぐ東側の信号機のあたりが街灯に照らされていたからだ。男はそこに立っていた。乗り込むなり、ぞんざいな口調で「宇多野や」と目的地を告げ、それっきり、どこをどう行けとの指定をすることもなく黙り込んだ。その彼が、フロントガラスの左端に、申しわけ程度に掲げてある小さな名札に記された「林利男」の文字を見つけるや「有名な競輪選手と同じ名前やな」と親しみを込めたような口調で言ったのだった。

 おっくうというほどの手間ではぜんぜんないのに、この日も自分の名札と入れ替えるのを忘れたまま仕事にでてしまっていた。

 いや、これ、俺じゃないです、相勤の名札ですと説明するのも面倒だから、へ~ッ、と返してごまかしたけれど、林利男さんは、村井誠一さんの次に組んだ、俺にとっては3人目の相勤で、乗客が言った「有名な競輪選手」その人なのだ。

 日本サイクリストセンター(現在の日本競輪選手養成所)の六期生として1953年(昭和28年)に選手登録した林さん。「力道山は、巡業で滋賀県にくると、わしをよく食事に誘ってくれた」と話してくれたことがあったから、現役時代はずいぶん花形の選手だったのだろうと想像はつく。けれど、選手寿命が長いと言われる競輪の世界にあって、20歳でスタートした林さんの競輪選手としてのキャリアは14年で終わっていた。ある日、レース中に転倒した選手が何台もの後続車に轢かれて死亡する事故が起こるのだけれど、林さんは後続車群のなかにいたひとりだった。

「それがあって、もうやめようと決めたんや」

 競輪の世界から身を引いたわけを淡々と話してくれる林さんなのである。

 四宮の東の外れの、山を削って造成した高台の住宅地に家を建てたのは「競輪界を去った翌年」と言っていたから、1968年(昭和43年)のはずである。現在は、その二階家で、3歳下の奥さん(さかえさん)、高校2年生の長女と、中学2年生の長男の一家4人暮らし。一階では奥さんが『さかえ美容室』を営んでいる。林利男さんは42歳。とにかく面倒見のいい親分肌の人で、自分の娘と6つか7つしか歳が違わない若造の俺なんかが相勤では不満だろうに、でも、そんな素振りは少しも見せず、「うちに遊びにこいや」と、いつも夕食に誘ってくれるのである。

 その林さんと相勤になったのは、村井誠一さんと俺が乗っていた127号車が12月に入ってすぐに代替で新車に変わったからだった。村井さんがそのまま新しい営業車を担当するのは当然としても、俺は入社してまだ半年の新米だから、新車なんてとても乗せてもらえる身分じゃない。「雨でも洗車」だけでなくタクシー業界にはいくつもの不文律が存在しているのだけれど、営業車を担当するにしたって年功序列みたいな順番があるのもそのひとつなのだ。

他の運転手と全く異なる生活スタイル

「10月の途中から、仕事、休んどったんや」

 一か月ほど前、相勤として初顔合わせをしたとき林さんはそう言った。

「20リッターではしんどいやろ。下鳥羽のスタンドまで走んのかなんし、それやったら休んだろかというわけや」

 一か月半も会社にでてこなかった事情を事もなげに話す林さん。その時点では彼が有名な競輪選手だったなんて俺は知らなかったし、奥さんが美容室を開いていることもまだ知らない。この人、長いこと仕事を休んでるのに自家用車はホンダの新車だし、どうなっているんだろうと不思議に思ったのを覚えている。それから親しく話すようになって、林さんは俺を気に入ってくれたのか、よく自宅に招いてくれるようになった。そうしているうちにわかってきたのだけれど、谷津さんや畑野はもちろん、俺も含め、たいがいの運転手は基本的にクルマの運転が好きだからタクシーに乗っているものだけれど、林さんはそこが違っていた。それだけでなく、他の多くの運転手たちとは生活スタイルからしてまるで異なる人だった。そもそも仕事の話なんてしてるのを聞いたためしがない。言葉にこそ表すことはないけれど、本当はタクシー仕事での給料なんて当てにしてないんじゃないか、傍からみるとそんなふうにさえ思えてしまうときがある。

 あれは深夜の一時を過ぎた頃だったろうか。御陵で客を降ろし河原町に戻る途中、三条神宮道の交差点の手前でクルマを止め、ちょっと休憩と、タバコを吸っていたときのことだ。対向車線を走ってきた──河原町の方から山科方面に向けて三条通りを走ってきた──白いシビックが俺の立っている前を通りすぎたところで止まり、バックした。止まった場所は道を挟んだ俺の正面で、何事、と見たら、ドアを開けて降りてきたのは林さん夫婦だった。見慣れたタクシーの横に突っ立っている俺の姿に気がついて、わざわざ戻ってきたのだった。

「なんや、休憩か」

 林さんは向こう側から大きな声でそう言い、彼の横では、さかえさんがシビックにもたれかかるようにして笑顔を俺に向けていた。

夫婦で木屋町に繰りだす

 さかえさん、やっぱり派手な人だなぁ、と、このときあらためて思った。林さんの家におじゃまして家族に混じって夕食をごちそうになるのはしょっちゅうだが、自宅で見てもさかえさんはいかにも華やかな感じがする女性で、俺はひそかに、さかえさん、派手っぷりや雰囲気が『絹の靴下』とかいうのを歌っている新人歌手の夏木マリみたいだなと思っているのだ。

 三条通りの端と反対端で大声を張り上げて話すのもなんだから、俺が小走りで道を渡った。一か月前の深夜の三条通りは行き交うクルマの数も少なかったけれど、年があらたまってからというもの、石油危機が山場を越したそうで、まちがいなくそれが理由だと俺は思っているが、深夜の交通量は石油危機の前と同じに戻っているようだ。

「木屋町の帰りなんや。わしは飲んでへんけどな」

 木屋町のスナックで、という話をこれまでも何度か聞いたことがあるから、このふたりにしたら珍しいことではないのだろうけれど、夫婦で頻繁に夜の木屋町に繰りだすタクシー運転手なんて、少なくともうちの会社では林さんを除いてほかにはいないだろう。さかえさんは酒豪らしいが林さんはまったくの下戸で、それでも、そういう遊びの場が嫌いではないらしいのだ。

「気ぃつけてな」

 別れ際、林さんは仕事に戻る俺に言い、さかえさんは「明日、公休やろ、みやびちゃんとご飯食べにきたらええ」と言った。

インフレとオイルショック

 六大都市のタクシー運賃が一斉に値上げになり、京都の小型タクシーの初乗りが150円から200円になったのは、村井さんの日本列島改造論批判の日から二か月後、年があらたまった1974年(昭和49年)1月のことだ。村井説どおり、インフレのあおりを受け30~50パーセントの値上げの必要に迫られていたタクシー業界は、そこに降って湧いたオイルショックで値上げ幅を大幅に修正しなければらない状況になっていた。業界が求めた値上げは70パーセント。本当にそのとおりなら初乗りは250円とか260円にまで上がってしまうし、さすがにそれは運輸局が認めないだろうと思ったが、結果は、村井さんが予想していたのと同じくらいの数字、29パーセントに落ち着いた。

 初乗り運賃が200円になった、その初日、1974年1月29日の朝である。

「どや、新しい相勤は。仲良うやっとるか」

 もうすぐ7時になるというのに、とっくに家に帰って寝ているはずの村井さんがショートピースをふかしながら言った。俺が55号車に乗りかえたのは12月の初めだったが、あれ以来、村井さんと顔を合わせるのはこのときが3度目だか4度目だった。俺の乗務シフトが少しずれたものだから、彼とだけでなく、このごろは谷津さんや畑野といっしょになることもなかなかない。

「3時には洗車も終わっとったんやけどな、広い湯船に浸かりとなってな久しぶりに会社の風呂に入ったんや」

 こんな時間まで帰らずに居残っていた理由を聞く前に先まわりして村井さんは事情を話し、風呂上がりに一杯やって、夜勤を終えた連中と話し込んでいたらすっかり遅くなってしまったのだと付け加えた。

「雪やで、今日は。無理しなや」

 音羽山のてっぺんが黒い雲に覆われていて、そこで降る雪を西向きの風がうちの会社まで運んでいた。真上が青空でも明け方はいつもそんな調子なのに、ましてや今日は一面の曇り空ときているから、これはもう雪が降り続くと考えておかないといけない。真冬だろうと、スノータイヤはもちろん、タイヤチェーンの用意すらないうちの会社である。雪道の安全も自分の腕だけが頼りだから「無理しんときや」と村井さんの言葉につながるわけなのだ。それから、おっと大事なことを言い忘れたとばかり、こう続けた。

「料金換算表いうの、忘れたらあかんで」

 冗談めいた口調だったから、俺も笑って「わかってますがな」と返したが、これからしばらくは、客が乗るたびに換算表をお題に同じ会話をするのかと思うと、仕事にでる前からその状況に想像がついた。

料金換算表

 運賃値上げの日だと知らないはずはないのに、京都駅のタクシー乗り場には予想外の大行列ができている。どう見たって観光客とは違う、今日は雪がちらついて寒いからタクシーで会社に行きます、みたいな人たちの列。寒さのせいか、タクシーを待つ列の長さはいつもの倍くらいはありそうだ。京都新聞はこの日の夕刊で「タクシー暫定値上げ発車」の見出しをつけ朝の京都駅のタクシー乗り場の様子を伝えることになるのだけれど、そこに載った写真は、まさに俺の目に映った朝の光景だった。

 俺が乗せたのは、行き先を言う前に「タクシー、10分も待ちましたわ」とぼやいた黒いコート姿の中年の男で、「出町柳」と目的地を告げてから「今日からタクシー値上げやね」と予想どおりの話が始まっている。

「乗らんとこと思とったんやけど、電車降りたらこの雪や。まっすぐタクシー乗り場に足が向いとった」

「きのうまでやったらな、京都駅から出町柳の駅まで390円やったんやけど、今日からなんぼになるんやろ」

 男が尋ねたのは烏丸五条からすまごじょうの信号が赤に変わったときである。もっともな質問だとは思ったが、俺にしたってこれが値上げになって乗せる3人目の客なのだ。出町柳までの新料金なんてわかるわけがない。確かなのは、メーターに表示された金額が初乗りの150円のままなら料金は200円、ということだ。

「ちょっと待ってください。確認してみますから」

 そう言って換算表を手にすると、それを見た男の「ほんまに暫定なんやな」と呟くような口調が、何だかすごくリアリティを感じさせた。

 29パーセントの運賃値上げ。これは暫定料金とかいうやつで、年内にもういっぺん32パーセントの値上げが決まっている。間を置いて二段階での値上げなら利用者が受ける「大幅値上げ」の印象は少しは薄れるだろうし、これならタクシー業界も納得するだろうという判断が役所にあったのだと思う。とにかく、「またすぐ値上げ」がわかっているだけに、費用がかさむ料金メーターの交換は一回で済まそうと、よその都市の事情は知らないが、京都のタクシーは、初乗り150円のメーターのまま換算表を持っての仕事となったわけなのである。出町柳までの料金がきのうまでは390円だったから、ほら、お客さん、この換算表を見てください。メーター表示が390円なら、料金は500円と書いてあるでしょう、と換算表を見せることになる。

五大力さん見物

 秀吉の醍醐の花見の醍醐寺は、住所こそ伏見区だけれど地図上では小野小町の隨心院の少し先でしかないから感覚としては山科みたいなもので(伏見区の住人がそう考えているかどうかは知らない)、だから山科の住人としては地元の寺も同然の醍醐寺でイベントがあれば足を運ぶのは当然、と、俺は勝手にそう思っている。その寺に千年以上も前から伝わる『五大力尊仁王会』。不動明王とか金剛夜叉明王とかの五大明王に国の安穏や人々の幸せを願う法要で、京都の人は、親しみを込め、たいがい「五大力さん」と言っている。この日に授与される御札を求めて京都はもとより全国から参拝者がやってくるとは聞いているが、実を言うと、詳しいことを俺は何も知らない。しょせん下世話なものだから、ただ五大力さんの『餅上げ力奉納』を見物してみたかっただけなのだ。男は150キロの、女は90キロの巨大な鏡餅を持ち上げ、その時間を競う名物行事。去年、その様子を報じたテレビのニュースを見て、来年は見物に、と決めていたのだ。

「わたしらも見たことないけど、餅上げ、すごい人気なんやてな」

 みやびさんと五大力さん見物に行ってきたと話したら、さかえさんはいつもの笑顔でそう言ったが、林さんは俺の話なんかまるで聞いてないふうで、さっきからずっと、俺が山科駅で買ってきた25日の朝日新聞・夕刊に釘付けだ。この日の衆議院予算委員会で行われた物価集中審議の様子が載っていて、林さんは五大力さん話などお構いなしに「ほんまに、どないなっとるんやろ」と、ひとり言なのか、さかえさんや俺に相槌を求めているのかわからないけれど、そう言うのだった。社会党の楢崎弥之助が「つくられた石油危機、品不足、狂乱の物価高。どうしてこうなったか、犯人はだれか。国民は真実を知りたがっている」と委員会で発言したと記事は伝えていて、林さんは、それに対して「ほんまやな」と言ったのである。

 事の成り行きは、大蔵省が一月に発表した貿易統計で原油の輸入量が明らかになったところから始まっている。

 中東で勃発した戦闘から二週間ほど経ったある日、突如としてテレビや新聞が騒ぎだした石油危機。通産省や石油業界が「産油国による供給削減の影響は12月にもっとも強くでる」と断言していたのを俺は聞いたか読んだかした覚えがある。実際、石油関連の製品は、物不足とばかみたいな値上げが続き、俺にしたって下鳥羽の山川石油で長い列に並んだあげく「今日は売り切れました」を味わったりもしたけれど、その12月の原油輸入量は、石油危機前の9月と比べて2.1パーセントしか減っていなかったというのだ。一年前の同月との比較では0.9パーセントの増加だし、あれもこれもの値上げが始まった11月と比べると5パーセントほども多く入っていた。さらに、去年一年間のトータルでは、前年よりも16.2パーセントも輸入量は増えていたというのである。

 だったら、どうして石油は不足してしまったのか、なんで俺らは20リットルしか給油してもらえなかったのか。10リットルしか入れてもらえない日だって何回もあった。あれは何だったんだと言いたくなる。

 実は、去年12月の石油の販売総量は、一年前の同月よりも6.9パーセント少なかった。原油の輸入量は増えているのに、販売量が6.9パーセントも減っていたのである。どうやら、石油危機をいいことに、石油元売り会社が売り惜しみと備蓄をしていたということらしい。原油の精製量を制限し、値上げ協定を結んだのである。元売り会社のひとつ、ゼネラル石油にいたっては、自分らがつくりだした石油危機を「千載一遇のチャンス」だと言って系列店に値上げを奨励していたというのだから、そのことを報じるニュースに釘付けの林さんが五大力さん話をそっちのけなのも無理はない。

 紙面の4分の1くらいのスペースを割いた長い記事を読み終えた林さんは、開いたままの新聞を横に置き、視線を上げて飲みかけのコーヒーに手を伸ばした。紙面の下段に『女性自身』のでかい広告が入っていて「加賀まりこが電撃挙式」の大きな文字が俺の目に映った。林さんが我に返ったような顔をして言ったのはそのときだ。

「そうか、みやびちゃんと五大力さん、行ってきたんか」

(「一章」終わり、次回から「二章」)

 全文無料公開「いつも鏡を見てる」次回は10/25(月)公開予定です。

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【注釈】

*1 現在はS級S班が競輪選手の最高ランクだが、林利男さんが現役だった当時の選手のクラス分けは、A級1班から5班までとB級1班と2班の計7層だった。

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