日本橋方面に向かう馬喰町一丁目の交差点にたたずむ「イーグル・ビル」実はこのビル、戦前から立っており、東京大空襲で多くの人の命を救った建物でもあります。
中央区と台東区の境目にある年代モノのビルの歴史とは
JRの馬喰(ばくろ)町駅を出てすぐの、馬喰町一丁目の交差点。ここに、1階部分が濃紺のタイル調のデザインの古いビルが、周りのオフィスビルやホテルなどに混ざって建っています。実はここは「イーグル・ビル」という名前の1930年代に建てられた鉄筋コンクリート製のビルで、今から80年前の1945年3月10日に起きた東京大空襲で、多くの人の命を救った建物でもあります。
馬喰町一丁目の交差点とイーグル・ビル(斎藤雅道撮影)
このビルは元々、イーグルというノート類の卸問屋で、当時はビル3階までが店舗だったそうです。中央区のホームページには、当時このビルに住んでいた、中田多嘉子さんの体験記が公開されています。
体験記によると、1945年3月以前に行われた昼間の空襲で、中央区日本橋の横山町から馬喰町一帯はかなり焼けたそうです。そして1945年2月25日、アメリカ軍は焼夷弾を使用し、東京市街地を第一目標とした爆撃を行っていました。
このときの天気は吹雪。総務省によると、悪天候かつ昼間ということでB-29の編隊も高高度からの爆撃だったそうですが、今の台東区や中央区に相当する部分が大きな被害を受けました。イーグル・ビルは浅草橋交差点に面した角にあったこともあって、「延焼を免れた」と中田さんの体験記にはあります。
関東大震災後に作られたのが良かった?
そして2月の空襲よりも遥かに被害が大きかったのが、1945年3月9日から10日にかけての深夜に実施された夜間爆撃、いわゆる「東京大空襲」です。この空襲は300機以上のB-29が参加し、対日戦としては初めて本格的に実施された、市街地に対しての夜間・低高度飛行による焼夷弾爆撃でした。
1階部分は現在カフェになっている(斎藤雅道撮影)。
この日の空襲では、2度空襲警報が鳴ったとされています。1回目の警報はすぐに解除されたため、安心していたところ、2回目の警報が鳴ったときには既に爆撃機の編隊が目の前で、「みんな慌てて逃げた」といった証言が多く残っています。
しかし、中田さんの住んでいた辺りでは逃げる暇もなかったようで「警戒警報が出ると、警戒のため外に出ていたのだが、あちこちが燃えだしたのを知って、(祖父が)急ぎ我が家に戻ってきた」とあります。
当時のイーグル・ビルには20坪ほどの地下室があり、ここが防空壕としても使えるように改造されていたとのことで、周辺から避難民を含め数十人がこの地下室にいたといいます。奇跡的にイーグル・ビルは燃え残り、中田さんの家族のほか、多くの人の命を救ったそうです。
実は、このビルは関東大震災後、東京市からの助成金で建てた本格的な耐震耐火建築になっていたとのことで、そのことも焼け残った理由ではないかと中田さんは回想しています。また、1階部分は爆風対策のためにシャッターを下ろし、それを外から太い松材で囲っていたとのことです。ただ、同ビルの屋上にも数発の焼夷弾が落ちたそうで、その焼夷弾は当時のお手伝いさんが火叩き棒で叩いて火を消し、外に放り出して難を逃れたようです。
ちなみに、現在のイーグル・ビルは昭和40年代に外壁を改修し、1階部分濃紺のタイル張りになっているものの、それ以外の壁や縦長な窓枠も当時の面影を残しています。なお1階部分においては2025年3月現在、カフェになっており、落ち着いた雰囲気が魅力のようです。