太平洋戦争の末期に東京は度重なる空襲を受けました。そのとき、鉄道はどのように運行されていたのでしょうか。なかでも地下鉄は空襲時でも運行できると期待されていましたが、それでも影響を受けていたようです。
「3月10日」以降も大規模空襲は続いた
太平洋戦争末期、1945(昭和20)年の1月から5月にかけて東京は度重なる空襲を受けました。最も知られているのは下町を焼き尽くした3月10日の東京大空襲ですが、その後は東京北部、南部、山手地域を標的にした空襲も行われました。
空襲で破壊された東京駅の赤レンガ駅舎(画像:パブリックドメイン)
東京大空襲を上回る数のB29が投入された4月13日の空襲では、豊島区など東京北部が標的となり池袋駅、大塚駅や池袋電車区が焼失する被害を出しています。同14日の空襲では蒲田電車区、5月24日には東京南部も焼失しました。
そして翌25日の通称「山手大空襲」で杉並から新宿、渋谷、霞ケ関付近まで、残る市街地全てが焼き払われ、攻撃目標がなくなった東京に対する大規模空襲は終了しました。2012年に復原された東京駅の赤レンガ駅舎が被害を受けたのもこの空襲です。
空襲下で鉄道はどのように運行していたのでしょうか。鉄道は1か所でも線路が途切れると走れなくなります。そして車両はレール上から逃れられません。また、直線状の線路や広大な駅、操車場などの設備は空から特に目立ちます。
しかしながら「鉄道は兵器だ」といわれたように、戦時体制を支える鉄道は簡単に止められないため、存在を秘匿しながら運行を継続する必要があります。特に重視されたのが、夜間に視認されやすい照明を消灯、減光、遮光する「灯火管制」でした。
戦時中の人々の暮らしを描いた作品には必ず、敵機の接近を知らせる警戒警報発令時に、室内灯を消灯したり、窓を雨戸や遮光カーテンで覆ったり、あるいは電球の光が広がらないように遮光具を設置したりする描写が登場しますが、鉄道の対応も同様です。
1938(昭和13)年に制定された鉄道防空取扱規程は、警戒警報発令時は車内灯を減光またはブラインドで遮光、車両の前照灯、標識灯、地上の信号機、標識灯、踏切警報機も減光すると定めています。これら灯火類には減圧抵抗器を取り付け、状況に応じて光量を切り替え可能としました。
空襲警報発令時は、車内灯を消灯し、信号灯や地上標識灯類も一部を消灯、それ以外も地表300m以上から視認されない程度まで減光。駅や操車場など各種施設の灯火類も完全に消灯するとされました。この他、蒸気機関車の排煙や火の粉、焚口から漏れる火明かりの対策まで挙げられています。
ドタバタだった地下鉄の空襲対策
とはいえ実際にどれほど実践できたのかは不明です。例えば現在の地下鉄銀座線は渋谷駅付近に地上区間がありますが、当時の旧東京地下鉄道1000形は室内灯が減光できず、旧東京高速鉄道100形は減光が可能だったものの、起動時に室内灯が点灯してしまう仕様だったといい、設備面の対応が万全というわけではなかったようです。
さらに1000形はレモンイエローの車体色、100形はシルバーの屋根という非常に目立ちやすい塗装だったことから、1943(昭和18)年に入ると、あわてて暗い色に塗り直すというドタバタぶりでした。
運輸通信省は1944(昭和19)年8月、告示「警戒警報又ハ空襲警報発令間ノ旅客及荷物運送ニ関スル件」で、警報発令中は乗車券の発行を制限または停止し、運行も予告なく変更または取りやめることがあると通達しました。
空襲下でも運行可能な交通機関として期待されていた地下鉄は当初、警戒警報発令中も室内灯を消灯し、列車標識として運転台に自転車用の懐中電灯を置いて地上区間を走行していましたが、空襲が激化すると運行どころではなくなり、運転を見合わせるようになりました。
もっとも、原爆投下を受けた広島ですら数日後には一部区間で鉄道が走り始めたことが示すように、線路の復旧は盛土、レール、枕木さえあれば比較的容易です。
前述の山手大空襲も山手線を中心に広範囲で駅舎、車両、線路が被害を受けましたが、6月1日までにすべての区間が復旧しています。そのため実際には、事前に危惧されたほど鉄道そのものが攻撃目標となることは少なかったようです。
ただし1945年7月28日に山陰本線大山口駅東付近、8月5日に中央本線浅川(現・高尾)駅付近、同8日には西日本鉄道大牟田線筑紫駅付近を走行中の列車が米軍戦闘機から機銃掃射を受け、多数の乗客が死亡する事件など、戦争末期の悲劇があったことも忘れてはなりません。