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社会現象化した横浜F消滅。「合併劇」を追ったフリーライターの記憶【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

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横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併問題をフリーライターとして追いかけたジュンハシモト氏【写真:宇都宮徹壱】

横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併問題をフリーライターとして追いかけたジュンハシモト氏【写真:宇都宮徹壱】

かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。(取材・文:宇都宮徹壱)

保ち続けたフラットかつ冷徹な視線

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。(取材・文:宇都宮徹壱)

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 当連載を執筆する中、当時のさまざまな資料や記事に当たりながら、時おり考えることがある。それは「もし自分が取材者だったら、どんなアプローチで記事を書いただろうか?」ということだ。

 横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が報じられた1998年10月29日当時、私はすでに「写真家・ノンフィクションライター」を名乗っていたものの、Jリーグや日本代表の取材実績はまったく持っていなかった。

 それゆえ本件に関しては、取材者ではなく一読者であり、さらに言えば傍観者でしかなかったのである(当連載は、そうした過去の負い目も原動力のひとつになっている)。

 さまざまな「当事者」たちの言葉を集めて「Fの悲劇」を再現する当連載。第6回となる今回は、この「合併劇」を追いかけていた取材者に語ってもらうと思う。

 ジュンハシモトは、私と同世代のフリーライターで、現在は夫と息子の3人で兵庫県西宮市で暮らしている。なぜ新聞や専門誌の記者ではなく、フリーランスである彼女に話を聞くのか。理由は3つある。

 まず彼女は、フリューゲルスというクラブや目前で行われる試合よりも、一貫してサポーターに主眼を置いて取材を続けていたこと。次に、彼女の発表媒体が『週刊SPA!』という一般週刊誌であり、社会現象として「合併劇」を捉えていたこと。

 そして、専門誌やスポーツ紙にありがちな情緒感を排し、フラットかつ冷徹な視線を保ち続けたことである(本人も「冷たいヤツだな」という自覚があるようだ)。

 そして彼女の鋭敏な眼差しは、現場で取材していた新聞社や専門誌の記者、さらには当時の出版業界に対しても向けられていた。これまた、ある種の「ムラ社会」に対する強烈なアンチテーゼとして興味深い。仕事と母親業の両立に忙しそうなハシモトに、さっそく当時の記憶をたどってもらうことにした。

「自分がフリューゲルスに関わるとは夢にも思わなかった」

 サポーターに関しては、のべで言うと100人くらいに話を聞きましたかね。それこそフリューゲルスだけでなく、マリノスや他のチームのサポーターからも。

 サポーター以外にも、フリューゲルスの運営会社である全日空スポーツの方からもオフレコ話を聞いたし、会見を通してマリノスのフロントや日本サッカー協会の言い分も聞いています。

 いろんな立場の方から話を聞けたのは、私が「合併反対!」とこぶしを振り上げて叫び続けるようなジャ―ナリストではなかったからだと思います。

 あくまでもニュートラルに、感情的にならずに、粛々とこの「合併劇」を追いかけたこと。そして関わった人をわけ隔てることなく、ひたすら淡々と話に耳を傾ける取材者に徹していたからだと思っています。

 出身は東京です。小学1年の途中から、父の仕事の都合で金沢に住んでいました。ただ(東京の)荻窪に家が残っていたので、大学はそこから通いました。大学の専攻がドイツ文学だったこともあって、ベルリンの壁が崩れた翌年(1990年)にドイツをひとり旅していたんです。

 ケルンに行った時、たまたま(大学の)同級生が同じユースホステルに泊まっていて、「サッカーの試合があるから一緒に行かない?」って誘われて、それが私のサッカー観戦デビュー。スタジアム初観戦がブンデスリーガで、たぶんケルンのホームゲームだったと思うんですが、対戦相手がどこだったのかさえわからない(笑)。ボーっと観ていただけでした。

 卒業後、最初に就職したのは人材派遣の会社で3年。その後、舞台製作の会社で1年半務めました。いずれも、ものすごく忙しかったですね。3ヶ月くらい東南アジアでふらふら遊んで、それから職探しをしたんです。

 幸いなことに私、留学していた時に初期のマッキントッシュを使っていたんですね。「マックが使えます!」って言うと、再就職にあまり困らなかったんです。それで一発採用されたのが、パソコン専門の出版社で95年の10月ぐらい。

 まさにウィンドウズ95ブームの前夜で、そこも取材と編集の仕事で怒涛の忙しさでした。ただ、ライターとしてのノウハウをそこで学べたのは大きかったです。

「Jリーグのとあるチームに大変なことが起こる」

 日本サッカーとの接点ですか? 当時はそんなになかったですね。もともとスポーツは何でも好きで、サッカーについては86年のワールドカップ・メキシコ大会からTVとかで観ていました。

 でも社会人になってからは、せいぜいアトランタ五輪を(TVで)観ていたくらい。Jリーグはすでに始まっていましたけど、最初の頃はなかなかチケットが取れなかったし、その後はあまりTVでもやらなくなったし。

 まさか、のちに自分がフリューゲルスに関わるとは夢にも思わなかったです。結局、97年の終わりくらいまで出版社で働いて、それからフリーになりました。

 フリーのライターになったのは、社内的な事務作業から解放されて、書くこと一本に専念したいというのがありました。世の中的には不況の真っ只中でしたけど、当時はライター稼業でも普通に食べていけました。

『週刊SPA!』とか『別冊宝島』とか、少しして『AERA』とかに書いていたけど、当時はページ単価が良くて4万から5万くらいでしたかね。今はどうだかわからないですけど、勤めていた頃と変わらないくらいの年収は確保できていました。

 ちょうどその頃、『サッカーチャット』という日本代表を応援するサイトがあって、チャットや掲示板の書き込みでよく出入りしていました。チャットも掲示板も、今の人はよくわからないですかね。要するにネット上の言論空間で、そこには今もサッカー業界で仕事をしている有名人とかいたんです。

 当時はニフティの『サッカーフォーラム』が有名で、そこから流れてくる人もいましたね。ちょうどワールドカップ(フランス大会)の予選の頃だったので、けっこう荒れることも多かったですが。

 そこではみんなハンドルネームを持っていて、私は〈SPEED〉と名乗っていたんですけど、〈クーマン〉とか〈ベベット〉とか自分が好きな選手を付けている人も多かったです。あと、仕事でJリーグに関わっている人とかも結構いたんですよ。

 ちょうど、フリューゲルスの合併が報じられる前日でしたかね。〈カントナ〉と〈セルジオいちご〉というハンドルネームの人たちが「Jリーグのとあるチームに大変なことが起こる」みたいなことを書き込んだんです。

 他の人たちが「どんなこと?」とか「どのチームだよ」とか聞くんだけど「明日の朝刊を読めばわかる」としか答えない。そんなやりとりが深夜遅くまで続いていたように記憶しています。

初めてのスポーツの仕事が合併問題

 たぶん、その日(10月29日)のニュースか新聞の早刷りで、フリューゲルスとマリノスの合併のことを知ったんだと思います。「ああ、〈カントナ〉さんたちが言っていたのは、このことなんだろうな」って。当時のフリューゲルスの認識って、「前園(真聖)がいたチーム」くらいしかなかったんです。

 そしたら、フリューゲルスの熱狂的な友だちから「何でこんなことになったのかわからない!」って、泣きのメールがバンバン入ってきたんですよ。今だったらLINEなんでしょうけど。

 で、その友だちからのメールがあまりにしつこかったので、何気なく「合併したら、来季はF・マリノスの応援をするの?」って返信しちゃったんですよね。

 そうしたら、瞬時に「そんなこと、できるわけなかろうがーっ!」って、ものすごい怒気のこもったメールが入って。それを読んで、ようやく私も「大変なことが起こったんだな」と思うに至りました。はっきり言って、それまではまったくの他人事だったんですけどね。

 それで夕方にSPA!の編集部に行って、副編集長にフリューゲルスの話をしたら「経費を出すから(取材に)行ってきて」って言われて、横浜国際競技場に駆け付けたんです。

 それが私にとってフリューゲルスとの最初の接点であり、初めてのスポーツの仕事でした。なぜ横国だったかというと、その日の夜に全日空スポーツの事務所でサポーター代表を集めての説明会があったんです。

 で、そこに入れなかった人たちが、スタジアムにどんどん集まっているという情報が、どこからともなく入ってきていたんですよ。私自身、それまでまったくフリューゲルスの取材していなかったので、事務所よりもスタジアムに行ったほうがいいだろうと判断しました。

どこのサポーターにとっても、決して「対岸の火事」ではなかった

 それで到着したのが、夜の8時とか9時とかですよ。それなのに結構な数の人が集まっていましたね。40〜50人はいたと思います。フリューゲルスのサポーターだけじゃなくて、(浦和)レッズとか(鹿島)アントラーズのレプリカを着た人もいました。関東周辺のクラブのサポも、他人事とは思えなかったんでしょうね。

 その時はSPA!の名前は出さなかったし、あまり大っぴらに「取材に来ました」とは言わなかったんですが、なんとなくその場にいる人の話を聞いていました。そのうち少しずつ人が集まってきて、誰とはなしに思いの丈をばーっと話し始めるんですよね。

 あの時、あそこにいた人たちは、何かをぶちまけたくて仕方がなかった。でも、誰に話していいかわからなくて集まってきていたのかなって、そう思いました。あの頃、どこのサポーターにとっても、決して「対岸の火事」ではなかったんでしょうね。

 他の取材者ですか? カメラはいなかったように思いますが、新聞社の人たちは何人かいましたね。そのうち新聞の最終(締め切り)の時間になって、その人たちは帰っていったと思うんですけど、サポーターは終電のあとも半分くらいその場に残っていて、私も朝まで付き合いましたよ(苦笑)。

 その頃の横国の周辺って、今と違ってものすごく寂しくて、ラブホ街とかあったじゃないですか。そんなところをひとりで歩くのも嫌だったし、女の子もけっこう残っていたから、その場のノリで残ることにしました。

 すごく寒い日だったんですけど、たまたまコンビニで使い捨てカイロをいくつも買っていたので、何人かと分け合いましたね。ただ、朝までいろいろ話を聞いていたけれど、そんなに収穫があったわけではないです。事務所の説明会に出席していた人たちも合流して、クラブ側とはまったく平行線で話にならない、みたいなことを聞いた記憶があります。

 結局、前向きな話なんてまったくなくて、「オレのフリューゲルスの思い出」みたいな話を延々と聞かされていた感じでした。「これじゃあ、とても記事にはならないな」と(苦笑)。

 それでも「このあと、この人たちはどうなっていくんだろう」と考えているうちに、「どこまでできるかわからないけれど、自分で納得できるところまでフリューゲルスを追いかけてみよう」って、その時に思いましたね。

<後編につづく。文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)

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